その同行する少女を、翌朝迎えに行ってほしい、とユカリは言い渡された。慌てて部屋に戻り、旅行仕様の荷物をまとめ始める。
着任以来、近場の職務であちこちに出向くことはあったが、大陸横断鉄道を使用して、などというのはさすがに初めてだった。
これは大事だ、と彼は思った。だが、その「大事」が、一人の少女の手助け、というのが、少しばかり気抜けがしたのだが。
いずれにせよ、それは彼の敬愛なる皇太后の命令なので、自分は全力を尽くさなくてはならない、と彼は内心、燃えていた。
燃えて、荷造りをしていた時だった。
「……何してるの?」
彼はぎょっとして声のする方を見る。それは自分の寝台の方からだった。
「アイノお前…… まだ自分の部屋に戻ってなかったのか?」
「主さまが今日は休んでいいっておっしゃったわ。だから」
「主さまが?」
「でもその様子だと、あんた仕事のようね。今朝、呼ばれて、あたしのこと、何か言われなかった?」
「言われなかった、って…… お前何かしたの? アイノ」
そう彼が言うと、アイノは長い黒い、二つに分けたお下げ髪を大きく揺らせた。
「したの、じゃないのよ! されたの」
「されたって、何を」
「ああやだやだやだ。絶対あんたってそうなんだもの。あたしが昨夜何回、あんたに抱いて抱いてって頼んだのか、それでも意味判らないのよね? 言うんじゃなかったわ、こんな恥ずかしい言葉」
ユカリは荷物をまとめる手を止めた。
「鈍感」
「……お前まさか、……その」
「されちゃったのよ。でも安心して。お相手は、男じゃないから」
「ちょっと待てよ」
彼は立ち上がり、友人のそばに寄った。アイノは見上げるユカリからふいっと目を逸らす。
「待てよ、じゃないわよ」
「って、お前、それって……」
「あたしが最近主さまの命で、芙蓉館に出入りしていたことは知ってるでしょ?」
「ああ、確か後宮の、……客人専用の館だよな? たくさん館は敷地内にはあるけど……」
「最近、そこに女の子が一人連れられてきて、世話を命じられたんだけど」
女の子? ユカリは軽く眉を寄せる。どうも最近お互いに女の子に縁があるらしい。
「何、その女の子ってのは、そういう類の娘なのか?」
「ううん、そうじゃないわ。だって第一中等の制服だったもの。あたしだって判るわよ。白い大きな襟に白いタイ。真っ黒な制服なんて、第一しかないわ」
まただ、と彼は思う。そしてまさか自分の同行する相手がそれではないか、と思わず考えてしまう。
「第一中等で、何かいいとこのお嬢さんみたいだから、あたしも丁寧に相手していた…… つもりなんだけど……」
「ちょっと待てお前、その『お嬢さん』に何かされたのか?」
う、とアイノは喉から声を立てる。そして寝台に座る自分の前でしゃがみ込むユカリの首に腕を回した。よしよし、と彼は友人の背中に手を回すと、それがやがてぴくぴくと動き出すのに気付く。どうやら泣いているらしい。
もっとも、彼らは声を立てて泣くこととは無縁だった。小さな頃から、そう訓練されているのだ。
やがて一時の嵐が治まったのか、アイノはそれでも顔を伏せたまま、小さな声でつぶやく。
「……そりゃ、あたしだって残桜衆の一員だから、いつかそんなことが必要になったら、それはやるしかない、って思ってたわ。だってそれがあたし達の仕事じゃない…… 主さま…… 皇太后さまから最も信頼される、隠密の…… 直属の部下なんだから…… だけど、それでも、最初は、あたし、あんたとしたかったのよ」
ユカリは回した手でぽんぽんと背を軽く叩く。確かにそのくらいだったらしてやっても良かった。彼女は友人だし、頼まれれば、それは。ただ昨夜の取り乱した様子では、さすがにそういう気にはなれなかったが。
残桜衆、と彼らは呼ばれている。アイノが言う通り、彼らはこの帝国の皇宮において、皇太后から直接の命を受け取って動く、隠密だった。
その成立は、既に百年程さかのぼることになる。
元々「残桜衆」というのは、かつてこの帝国が統一を果たす三代の皇帝の御代において、最後まで抵抗を続けた藩国「桜」の残党だった。
それは長い間に分裂と増殖を繰り返し、いつの間にか、本体は何処に行ったのか判らなくなっていたが、その一派が六代の皇帝の御代において、当時の皇后エファ・カラシェイナの元についた。
それ以来約百年、彼らは皇后そして皇太后の直属の部下として、その手足となって働いている。
もっとも、この帝国において、皇后および夫人が直属の部下を持ち、政治に参加することは禁じられているので、あくまで彼らは隠密である。普段は、この皇宮において、何かと別の仕事についている。
そして、その必要に応じて、皇太后カラシェイナの直々の命令が下るのである。
「……ごめんね。仕事に出かける矢先に」
「いいよ、別に」
「ううんそうは行かないわよ。あたしはお休みをいただけたけど、あんたはそうじゃないわ、せっかくのお仕事なのよ。体調も万全にして行かなくちゃ。……ごめんね、何か目赤い」
「本当にいいって」
そう言って、ユカリはもう一度、彼女の背を軽く叩いた。そして身体を離すと、今度は正面から向き合った。
「けどお前、その芙蓉館に居るお嬢さんって、誰なのか聞いているか?」
「ううん」
アイノは首を横に振る。
「聞いていないわ。確かに第一中等の生徒さんだってことは確からしいんだけど……あたしが知るべきことではないし」
「そうだよな」
その送られてきた「お嬢さん」の世話をするのはアイノの「仕事」。しかし、その「お嬢さん」の素性に関心を持つのはその範疇には無い。それ以上の関心をもつべきではない。それが二人の共通した考えだった。
「何か主さまにもお考えがあってそうなされているのだとは思うわ」
「そうだよな」
彼はうなづく。