タキ・ユカリ・センジュがこの皇宮に勤める様になったのは、彼が帝都に入ることのできる十六歳になった時だった。
この「帝国」において、帝都は政治の都。子供の入るべき場所ではない。
皇室の人間ですら、それは同様であり、皇太子以外の、十六にならない子供は、その都市に足を踏み入れることはできない。
皇帝陛下の幾人か居られる夫人かたがたから誕生した皇女がたもそれは厳しく守られる。彼女達は、十六の誕生日を帝都で祝われるが、それまでは副帝都の離宮でそれぞれ過ごされる。
子供の声は在る時ですら、たった一人。しかし現在はそのたった一人も、この都には存在しない。
現在の皇帝陛下には、男子がお生まれにならない。
皇太子の母たる皇后陛下も、それ故にこの「帝国」には現在存在しない。
それだけに、現在この帝都において、最も高貴な女性は、ユカリの主たるカラシェイナ皇太后となる。
最初にこの新しい主に会った日のことを、彼は忘れられない。
おさまりの悪い黒い髪の毛を、それでも必死でなでつけて、新しい服で身を固めて、同じ里の出身である彼らの若き長に連れられ、その部屋へとやってきた。
それがあの部屋だった。皇宮の長い長い廊下の、後宮よりのある場所の壁を押すことによって現れる、小さく薄暗い。
さすがに、そこに皇太后が御自らやってくるとは、まだ子供だった彼は、思ってもみなかった。
明らかにそこは隠し部屋だった。そしてひどく質素な部屋だった。古い家具と、古い絵が、古い燭台のぼんやりとした灯りによってのみその輪郭を明らかにされる、そんな場所だった。
ユカリはその場所に親しみを感じた。いや、彼の育ってきた里には、そんな場所があちこちにあった。一瞬彼は、自分が何処に居るのかと戸惑った。若き長であるモエギがどうしたのだ、と声をかけ、肩に手を置いてくれるまで、その錯覚は続いた。
そんな場所に、わざわざこの帝都で、いや帝国中で最も高貴な女性が姿を見せるとは思いもしなかったのだ。
しかし、それは現実だった。
「待たせたわね」
と明るい声を響かせて、彼らの入ってきた側とは逆の扉を開けて入ってきたのは。栗色の長い髪を編み込んで上でまとめ、穏やかな色合いの、飾り気の無い服を身に付けた、そのひとは。
そして彼は目を疑う。
これが、皇太后さまなのか、と。
確かにそれは聞いていた。知ってはいた。
だが、聞いている知っていることと、目の前に現れたものを現実として受け止めることができるか、は別問題である。
とりあえずその時、ユカリは目の前に現れた女性が皇太后であるということを、すぐには信じられなかった。
だって。
彼は自分自身に言い聞かす。
だって皇太后さまは、現在の皇帝陛下の母君ではないのか?
現在の皇帝陛下には、たくさんの皇女がたが居る。一人をのぞいたその全てが既にそれぞれの地位に似合った名家と婚儀を執り行い、既に家庭に納まり、子供も居るというのに。
なのに。
彼はやはり目を疑った。
なのに何で、こんなにこの方はお若いのだ?
現在未婚の皇女は、末のマオファ・ナジャ一人だったが、その皇女と同じくらいの年齢に、この目の前の女性は、彼の目には映った。
「こら、ご挨拶をしないか」
「あら、いいのよ、萌葱」
あ、と彼はその時気付く。この方は長を真名で呼ぶのだ。
「いいえカラシュ様、最初が肝心なのです」
「あら」
楽しそうな声がそう跳ねた。
「そういえば、その昔あなたもそうだったわね、萌葱」
「またどのようでも良いことをよく覚えておられる」
「あらどうして? 今の代の残桜衆の小隊長にも、そんな時代があったことは変わりないことよ? いつかこの子がそうなるかもしれないでしょう?」
「は」
「よろしくね、紫」
そして、彼女はユカリに向かってその真名を呼んだ。
皇太后さまを名前、しかも愛称で呼んでいる。その事実に驚きながらも、彼はその時は、とにかく教えられた通りの礼をした、という記憶はある。
何せその時の新たな自分の主に対する印象が強すぎて、自分が何をその時言ったのか、どう頭を下げたのか、何も記憶に残っていないのだ。
後でモエギに聞いた話によると、代々のこの残桜衆の小隊長だけが、彼女を愛称で呼ぶことが義務づけられているのだという。
「『義務』なんですか?」
ふと気になって、その時ユカリは聞いていた。並んで歩くと、まだ、長の顔を見上げなくてはならなかった。
すると当時の自分の倍の年月を生きてきた男は、ふう、とため息をつきながら言ったのだ。
「……『義務』なんだよ、これは」
彼は首を傾げた。するとモエギは少しばかり苦笑を浮かべると、自分と同じ黒い髪をくしゃ、とかき回した。
「私のことは愛称で呼びなさい。できるだけ自分の思うことを言いなさい。それがあなた、私の残桜衆の長の義務です」
モエギはそう彼女の口まねをした。
「不思議な方だろう?」
「はあ……」
曖昧に、彼はうなづいた。
「俺がここにお前くらいの歳にやってきた頃と、あの方は全く変わらない。俺の前の代も、その前の代も、そうだったろう」
「……」
「それが、皇后だった方、ということなんだ。よく覚えておけよ、ユカリ。そして、その方にこの様にお仕えできるのは、我々しかないんだ、ということもな」
「はい」
そして今度は、はっきりと彼は返事をした。