しかし期待していた以上に、トゥリスツクの街は、小さく、そして乾いていた。それに加えて、朝の空気はひどく冷え込んでいる。午前六時半。未だ何処の食堂も空いてはいないのではないか、と改札を通るユカリは感じた。
だがナギは、そんな彼を後目にどんどん先へと歩いていく。
「何してる、行くぞ」
「少し中で待たないか? 風邪をひくよ?」
「時間が惜しい」
短く彼女は言うと、どんどん彼を置いて一人で歩いて行こうとする。ユカリは慌てて立ち上がると、小走りになって彼女に追いついた。
「でも何処の食堂もまだ」
すると、ナギはにやりと笑う。
「あなたは本当に大して何処にも行ったことが無いんだな。ここがどういう街かは知らない?」
「え」
「無論私も来たことがある訳じゃないが、ほら、見てみろ」
トランクを持っていない方の手で、彼女はやや遠くを指さす。
「……工場ですか」
「ああ。それも、結構大きなものだ」
そういえば、この地方には集団農場のようなものが作られている、と彼は以前学んだことを思い出す。
「こういった所へ通う人々は、決してここに昔から住んでいる人ばかりじゃない。ここに出稼ぎに来ている場合も多い。そういう人のための食堂くらい、あちこちにあるはずだ」
「って、ちょっと待ってくれよ」
「何だ?」
「ということは、あなたは、その格好で、工場の人々の中に?」
「悪いか?」
「悪いとかそういうのではなくて……」
悪いとか、そういうのではなく――― 確実に、浮く、と彼は思った。
ただでさえ、銀の人形の様なこの美貌である。作業服姿の人々の中へ入ったら、確実に浮くだろう。
「構わないさ」
だがあっさりと言って、彼女は再びどんどん歩みを速めていく。
仕方が無い、と彼はそれに付いていくしかなかった。それが自分に与えられた仕事なのだから。
駅から数分歩くと、少しばかり大きな通りに出る。朝早いだけあって、石畳のその通りには、自動車はもちろん、馬車も自転車の姿も無い。だがしばらく左右を見渡しながら歩いていると、不意に、良い香りが二人の鼻をついた。
「ほら言った通りだろう?」
これでもか、といわんがばかりの笑顔を、ナギは浮かべた。そしてユカリは、不覚にも自分がその顔に見とれてしまっていたことに気付いた。
心配していた程、その店には作業服の労働者が多いということは無かった。どちらかと言うと、この通りの店の売り子達が集まってくる様な場所だった。
だが混み合ってはいた。その辺りに開いている店が殆どないこともあるだろう。すいませんね学生さん達相席で、と銀色に光る盆を持った女性が、それでも容赦なく告げた。
「どうやら、あなたまでが学生に思われているようだ」
その店は、横に長い椅子が幾つも並べられ、そこに足を差し入れる様にして座る方式になっていた。彼らは隣に座ったが、前にも横にも、地元の人間ばかりである。
メニュウと言える程のものもなく、皆が皆、席を取ったら、店先に出向いて、幾つかの種類のある「朝食」を受け取りに行く形らしかった。
「取ってこようか?」
とユカリは訊ねた。「自分で行く」と断るか、と思ったら、彼女は案外あっさりと頼む、と言った。
「じゃあAを頼むわ、兄さん」
そして付け足す様に、そんな口調でナギは言った。何となくその口調は彼の背にはくすぐったい。なるほどきょうだい。その様に彼女が自分達という組み合わせを外に定義づけたのだ、と彼はその時初めて知った。明らかに、こんな若い二人連れ、しかも片方は中等学校の制服を露骨な程にまとっている。張り紙をしておかないことには、下手な好奇の目を引くな、と彼も納得をした。
余談だが、ナギがAとか言っているのは、彼らにとっての言葉のアルファベットであり、我々のアルファベットでは無いことを断っておく。
ここで彼女が言っているのは、この帝国公用語におけるアルファベットの最初の文字のことであり、必ずしもそう発音するというものでは無い。
「お待たせ」
「ありがとう」
「何、きょうだいで旅行かい?」
湯気を立てる茶と、黒い、密度の高いパンにユカリが口をつけていると、差し向かいに座った若い男達が、声を掛けてきた。いきなり何だ、とユカリは思ったが、驚いたことに、ナギはそれに対し、にっこりと笑いかけている。
「ううん、旅行じゃないんだけど」
「へえ。じゃあ何かい? 学生さんだろ? 帰省か何か?」
「ええそう。ちょっと遠いものだから、兄さんが迎えに来てくれたの。そうよね」
「あ、ああ」
いきなり如何にも少女、という口調になったので、彼は慌てた。だが違和感は無い。むしろ、それまでの口調自体が違和感のあるもののはずだった。
「何じゃあ、ここいらの出なのかい?」
「それって、学都の学生さんの制服だろ?」
「何なに、学都の学生さんなの?」
更に斜め向こうの娘が、話に加わってくる。
「あったまいいんだね。だってさあ、ねえ、聞いたことあるよ。だいたいここいらだって、一年に一人か二人しか出ないじゃん。それともいいとこの娘さん?」
「やだそんなことないですよお」
わざとらしい程にナギは手をひらひらと振る。
「じゃああたまいいんじゃん。すごいよねえ」
そうそう、と今度はその横の娘がうなづく。ああやっぱり、とユカリは内心冷や汗をかく。
だがナギはと言えば、実に平然として、にこにこと食事を続けている。車中のあの仏頂面や、冷笑は何処へ行ったのだ、と何となく彼は割り切れないものを感じる。
「でも、ここの出じゃないんですよ。も少し北なんですけど」
「って、ずいぶん向こうだねえ」
「あんまり長い時間列車に揺られていて、お腹も空いたしって。だから、ここは初めてなんですけど」
「そーだよね」
そうだそうだ、と更に増えた人の輪がうなづきあう。
「でも、一度来てみたかったんですよ。だって、ここって今の皇家のかたがたの出た地だってことじゃないですか」
「ええ? そうだったかなあ?」
人の輪が少しばかりざわつく。その中から、「星虹新報」を四つに折って読みながら食事を取っていた、勤め人らしい男が穏やかに口をはさむ。
「残念ながらお嬢さん、それはやや見当違いじゃないかな」
「えー、そうですかあ?」
「確かに『このあたり』ではあるんだが、もう少し向こうだよ。ユグヌスルツク」
「あら」
そう言って、ナギは「お兄さん」の顔に唐突に視線を移した。