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第92話 傘型の屋根を張った天幕の中

「どうもありがとうございます、ホノヘツの族長、サイ・ウェナンシ・ツェプシ」


 大きな傘型の屋根を張った天幕の中で、ナギは足を折り畳んで座ると、丁寧に前に座る白い髭の長い老人に頭を下げた。


「頭を上げなさい、イラ・ナギ。我らが里の、目印の屋根の下にも高速通信があった甲斐があったというものだ」


 レンガ色の、厚手の上下を身に付け、太い皮のベルトを締めたこの「族長」は片手を上げ、彼女にそう言った。やはり足を組んでいるのだが、ナギとは違い、胡座をかく形となっている。

 真ん中には炉があり、そこには火が一日中焚かれているらしく、既に陽が沈んだというのに、天幕の中は暖かだった。

 族長の側には、青年が一人控えている。馬でずらりと並んだこのホノヘツの者達が馬で駆けつけてくれた時に、真ん中に居た男だ、とユカリは記憶をひっくり返す。族長の補佐役か何かだろうか、と何となく足に嫌な感覚を覚えながら、彼は考えていた。


「古い知己のファイ・シャファ・マーイェ、それに彼女の夫である、族長ディ・カドゥン・マーイェを信じてはおりましたものの、この様に急な相談を、受けて下さるとは思ってもみなかったものです。本当に感謝致します。……ん、どうした?」


 ナギはふと、隣に同じ様な体勢で座っているユカリを見た。そしてその神妙な顔つきにははん、という様に顔を緩めた。


「ツェプシ族長、少し足を緩めてもよろしいでしょうか」

「ほ?」

「どうやら彼は慣れない姿勢に足がしびれた様です」


 すると族長は高笑いとともに、良いとも良いとも、と足を崩すことを勧めた。


「も、申し訳ございません」


 そう言いつつもユカリはゆっくりと足を緩める。だがしかし、足を地面についた瞬間、彼はあ、とその場に転んでいた。まるで足の感覚が無いのだ。


「……大丈夫か、しっかりしろ」


 ナギは中腰になると、彼に手を貸す。


「しばらくは伸ばしていた方がいい。挨拶は済んだ。楽にできるぞ」

「は、はあ……」


 するとその様子を見ていた族長は、髭を撫でながらいっそうの高笑いを立てた。


「ゆっくりと滞在なさるがいい。いや、イラ・ナギ、それともお急ぎかな?」

「はい。色々として頂いて、申し訳ないのですが、先を急ぎたいのです。できれば、明日には、再び列車に乗れたら、と思います。それにゆっくりしているとまた、この様な輩がここにもやって来ますし」


 ナギはちら、と天幕の開いた外の方へと視線を移す。その向こう側で、手当を受けた男を含めた三人が、拘束されている。


「我々は別に構わないがな。今更帝都の警察機関が手を伸ばしたところで、この大地そのものを全て捜索する訳にもいくまい。ここが我らの土地、どれだけ広くとも、空と風と大地その存在が我々の地図。彼らが幾ら来たところで、我々の居場所は突き止められまいよ」

「判りますが、できるだけ、乱は起こさぬよう、というのが、私を一時的に拘束している相手の申し分ですので。無論私もそれを好みます」

「そうであろうな。さて、では本論に入ろうかな。イラ・ナギ…… 彼はいいのかね、この話においては」


 族長はちら、とユカリの方を見た。


「はい」

「本当に? 大丈夫かね」

「おそらく、だからこそ、あの方も彼を付かせたのだと、思うのですが」


 ユカリはしばらく足のことが気になっていたが、さすがにこんな会話をされては、耳をそばだてぬ訳にはいかなかった。どういう意味だろう、と彼はふと思う。


「なら良かろう。まあ中身とはともかく、長い話ではない」

「そうなのですか?」


 族長はそうだ、と言うと、側についていた青年に、何ごとかを囁いた。はい、と青年は言うと、天幕を出る。ややあって戻ってきた彼の手には、馬乳酒と乳茶の壷がそれぞれ一つづつあった。


「どちらが好みかね、イラ・ナギ」

「乳茶をいただきましょう。本場のものが久しぶりに呑みたいと思っていました」

「そちらには?」


 青年がユカリを見て問いかける。


「彼は……」

「見たところ、既に成人はしていそうだが? そう、やはりこっちであろう?」


 族長はほほほ、と笑いながら、杯の中に、馬乳酒を注いだ。

 さすがにそこで酒は呑んだことが無い、などとは彼には言えなかった。


「『落ちてきた場所』」

「はい」

 ナギは馬乳酒を手に問い返す族長に対しうなづいた。

「建国の際に、初代の皇帝が、遭遇したという」


 遭遇「した」。

 その言い方に、何となくユカリは奇妙なものを感じる。そもそもここで彼女が初代の皇帝に対し、敬称をつけないことだけでも、彼としてはつい口を出したくなるのだが、今までの堂々巡りから、それは避けていた。

 つまりはナギは、皇帝にも皇室にも、何の敬意も持っていないのだ、ということを彼はようやく理解し始めたのだ。

 もっともそれを認めるにはなかなか彼の中でも葛藤はあった。今まで彼が出会って来た人間は、それが皇室の敵であろうが、それでも敬意は存在していた。いや、敬意があるからこそ、彼らは帝国政府に、皇室に対して反抗をしてきたと言ってもいい。

 だがナギは。この見たところ、少し風変わりな格好をした女子学生は、違っている。はっきり言って、敬意どころか、興味が無い。

 彼は皇太后カラシュから依頼され、彼女のために動くことに対し、誇りと喜びを持ってきた。それが自分の特権なのだ、と思ってきた。ところがナギは言った。こんなことはさっさと済ませて自分の場所へ戻りたい、と。


 こんなこと。


 なのに、彼女が皇太后に「お願い」されたことは、どうやら自分が今まで関わってきたこととは、何やら規模が違いそうなのだ。そして自分はその「手助け」に過ぎない。

 そして現在、ナギは、と言えば、このほとんど初対面であろう北西の部族の長と、対等に話している。


 誰なのだろう?


 彼は今更の様に、自分の斜め前に座る彼女が判らなくなっていた。

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