「明日、動くぞ」
夕刻、遠乗りから戻ってきたナギは、帰ってくるなりユカリに向かってそう言った。
「頭痛はもう大丈夫か? 気持ち悪いところはないか?」
「や、……大丈夫」
「本当にそうか?」
そう言って、彼女はユカリの頭を抱えると、自分の額を相手のそれにくっつけた。
「な、何をするんです」
「何をって…… 熱がないか診ただけではないか。何を考えてる」
ほとんど押しのけるようにして彼はナギの身体を引き剥がした。金色の瞳は、別段面白がっている様子も無い。どうやら自分の取り越し苦労だと、さすがに彼も判る。だが、身体のほうは、そんな理性を無視して、普通で無い反応を見せていた。
ナギはそんな彼を見て、ふうん、と首をかしげる。
「今日は、何してた?」
軽く銀に近い金の髪をかき上げながら、彼女は問いかける。
「何してたって…… ぼけっとしてろ、ということだったし」
「命令した覚えはないけどな」
「別にされた覚えもないですが。……族長と話しをしていた」
「族長と」
「ああ。あなたのことをどう思ってる、と聞かれたけれど」
「興味はあるな。どう思ってる?」
ふふ、と彼女は笑う。
「からかってるんじゃないだろうね」
「からかってる訳じゃないが、気にはなる。あなたは結構に可愛らしいから、私としては、あなたが私に好意的だと、楽しい」
「可愛らしいって」
彼は絶句した。少なくとも、年下の少女に言われる言葉ではない、と思う。
「でも言われないか? 年上の女とかには」
「それは」
彼は口ごもる。全く無い訳ではない。そういう直接的な言葉で言われた訳ではないが、そう思っているのではないか、と感じさせる言葉はあちこちで聞いている。
「あるだろう?」
くすくす、と彼女は笑った。
「何で、そう思うんだ? あなたは俺より年下じゃないか?」
「別に年下と言ったことは無いが」
「だって、中等の本科の二年だったら、俺よりは年下じゃないか」
「まあ普通はな」
「あなたは普通じゃない、と言うのか?」
「そうだな」
ぐるり、とナギは首を回す。その拍子に、髪の後ろの三つ編みがざらりと揺れた。
「普通じゃあないな。少なくとも、人間じゃないから」
またそんなことを言う、と彼は眉を寄せた。
「からかうんじゃないよ」
「からかってはいないが。まあ、見かけよりは歳はいってるんだ…… あちこち行っていた時期が長いし」
すっ、と彼は目線の先から彼女の姿が消えたのに気付いた。
座らないか、とナギは先に草地の上に腰を下ろしていた。両の膝を立て、ボタンのたくさんついた白い長いカフスの腕でそれを抱きしめる様にして、彼女は遠い暮れる空に視線を飛ばしていた。
「……ここから海までは遠いな」
「海?」
「明日から、海へ向かうんだ。一度帝都総合駅に戻り、それから大陸横断鉄道に乗って、青海市へ向かうんだ。海は、行ったことがあるか?」
ユカリは首を横に振る。帝都は内陸部だった。海は遠く、下手すると、砂漠を越えた国境の方が近いかもしれない。
「湖だったらあるけれど」
「そうだな。帝都やその周辺の者が行く水のある地と言えば、そういうところだろうからな。だが問題は、海なんだ」
「何故?」
ユカリは自分の口からあっさりとそんな言葉が出るのをふと不思議に思った。だが、それはひどく自然だったのだ。ナギの吐き出す言葉は、自分の中でずっと閉ざされていた疑問を引き起こす力を持っているかの様だった。
「海が閉じているのは、あなたも知っているだろう?」
「ああ。昔は、海を渡って、東海の航路から、現在の連合に組み込まれた小国へと行くこともできた、と聞いているけど」
「そう。だけど今はできない。何故だ?」
何故だったろう。彼は自分の中の知識を掘り起こす。確か。
「いつだったか、船が進まなくなった、と聞いているけれど」
「そう。私も実際に体験した訳じゃあないが、カナーシュ師はそう言っていた。彼はそれを歴史的大事件と見ていたから、結構私にも詳しく語ってくれた」
「進まなくなるってのは?」
「つまり、計器が狂う」
「計器が」
「ちょうど、船も機械化が進み始めた頃だったらしい。だから今より百年かそこらの昔ということだろう。だが、陸上を走るものの様に、どうしても上手くいかない。……昔は、霧や幽霊やら何やら得体の知れないもののせいで、海で遭難したり、行方が知れなくなったりすることが多かったらしいが、……そんなものが迷信だと言われる工業の時代が来たら」
「今度はその工業の産物が、効かない?」
「そういうことだ」
ナギはそう言うと、顔を上げた。
「ただ、それが、ちょうどこの地から、『落ちてきた場所』が消えた時期と重なる」