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第96話 眩暈がする程の広い視界

「イラ・ナギだよ」

「ナギ? 彼女が、どうかしたのですか?」

「いや、話に聞いていた通りであったな、と思うてな。おぬしは聞いていないか? あるじから、自分が付いていくのが、どんな者であるのか」

「聞いてはおりませんでした。……どんな人であろうが、自分の主人の命じるのであれば、自分は、付くのが仕事ですから」

「まあそれは、ある意味正しかろう」


 すう、と族長は再び煙を吸い込み、吐き出す。


「生きていくためには、それぞれに仕事がある。街の人間には街の人間の、我々草原の人間には、草原の人間の」

「はあ」

「それはそれで正しいが、しかし、街の人間は、我々とは違った意味で流れていく」

「流れて?」

「我々は大地を移動する。だが生きて行く上ですることは、昔よりさして変わる訳ではない。空を読み、風を読み、草を追いす、水を追い、移動し、馬を羊を飼う。その繰り返しだ。しかし街の人間はそうではなかろう」

「……」

「たとえひと所に居着いたとしても、そこでは様々なものが動いている。巡っていく。時にはそこに居られなくなることもあるだろう」

「それが…… 彼女と何が?」

「まあ少年よ、結論を急ぐではない」


 少年? 思わず言葉に頭に血が上り、ずき、と頭に痛みが走る。うめきながら彼はしばらく頭を抱える。

 そしてまた、族長はしばらく黙った。

 ユカリは途中で放り出された言葉の意味をしばらく考える。

 見上げると、ゆっくりと、雲が動いていく。

 彼の育った里、働く帝都では決して見られない、遮るもの一つ無い、広々とした空がそこにはあった。

 眩暈がする程に、それは彼の視界に、広がっていた。


「……ナギは、ここに来たことがあるのですか?」

「いや、彼女はここに来たのは初めてだ。しかし、彼女は、我々と同じ草原の部族の土地に居たことはあった」

「カラ・ハンですか?」


 彼は昨夜、ぼんやりとしていた頭の中で、それでも残っていた言葉を口にする。


「おや、それでもちゃんと覚えておったか」


 ほっほっほ、と族長は笑った。あまりにその笑いが軽快なものなので、ユカリも腹を立てることもできない。何となく、自分がそう感じてしまうことが、馬鹿馬鹿しくもなってくる。


「まあ、よく聞いておった、というところだろうな。では、カラ・ハンの地のことは聞いておるか?」

「辺境の部族であることは聞いています。しかしあそこに彼女は住んでいたことがあるのですか?」

「まあ、あるらしいな。わしもよくは知らぬ」

「知らない…… って」


 ユカリは思わず問い返す。


「あなた方は、彼女のことは」

「知っていると言えば、知っているし、知らないと言えば、さっぱり知らないと言ってもよかろう」

「それでもああやって馬を出すのですか?」

「それはおぬしら、街の人間の思うことであろう。我々には我々の、思うことがある。……カラ・ハンの族長から、我々のたった一つの高速通信に連絡が入ったのが昨日の朝。向こうの族長じきじきの頼みであったのでな」


 あれか、と彼は駅で彼女が高速通信を掛けていたことを思い出す。確か彼女はシャファ、と相手に呼びかけていた。


「シャファ、という方と知り合いなのですか? 彼女は」

「どうであろうな。シャファというのは、カラ・ハンの副族長であり、族長のディ・カドゥン・マーイェの妻である女性のことだが」


 余計に彼には判らなくなってきた。


「ナギは俺に、第一中等に入る前は、何処かを回っていたと言ってました。……それがカラ・ハンなのでしょうか」

「とは、限らないだろう」


 族長はぽつん、と言った。


「少年よ、おぬしその姿でひとを判断するのではないぞ」


 え、と彼は顔を上げた。


「けど俺は、見た目はその人を現す鏡であるから、まずその人間をよく見て、そして判断しろ、と言われてきました。それは間違いだと言うのですか?」

「間違いではない。確かに見た目は、その人間の生まれも育ちも、その性質も、映しだしてしまうものであろう。どんなに上手く隠したところで、その人間の生きてきた何かしらが、表に現れるのは確かだ。しかし人の目というものは、非常に曖昧なものなのでな、見えているものが全てだ、と思いこむことが多い」

「……よく、言っている意味が判りませんが……」


 ユカリは少しばかり恐縮してつぶやく。


「確かに、ナギは俺の持っていた、第一中等の女子学生の印象とはずいぶんと違います。けれどそれは、きっと、あの制服を着た彼女を話しもせずに出会った人間には判らない、ということと近いでしょうか」

「近くはある。おぬしはなかなかいい所を付いているな」


 近くなのか、と彼は思った。ではそれは答えにはならない。だとしたら。彼は思う。何を一体自分は掴んでいないのだろうか。


「彼女は今日は、コルプツと出かけたようだな」

「コルプツ?」

「昨夜おぬしに酒をたんと注いだ若い者のことだよ」


 そう言うと、族長はやや意地悪げな笑いを浮かべた。


「まあ明日は移動となるだろう。今日は一日、のんびりと空を見、茶を呑み、食事をしていくがいい」


 はあ、と彼は曖昧に答えた。そしてそんな答えしかできない自分が、ひどく不思議に思えた。

 その話はそこで打ち切られた。族長は彼に、帝都の普通の暮らしについて、聞きたがったので、彼は自分の答えられる範囲で、それを口にした。

 しかし、口にしているそれが、奇妙なほどに、自分の中で実感というものが無かった。それはあくまで一般的なことで、自分自身の生活ではないのだ。言葉は宙に浮く。浮いているのだ。

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