目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第111話 硝酸と硫酸とグリセリン

「ナギ荷物は……」

「だから、身軽な方がいい、って言っただろう! 最初に!」


 それはそうだ、と彼も思う。


「後のことは、何とでもなる?」

「そうだ」


 そうなのだろう、と彼は思う。実際、彼も、財布だけは服の内側に入れたままだったのだ。


「じゃあナギ、すぐに海岸の方へ?」

「いや、薬局へ行ってくれ」


 あ、と彼は走りながら気づく。


「だけどそれだけで、大丈夫なのか?」

「大丈夫だ、と思う」


 思うだけでは困るのではないか、と彼は背後から追いかけてくる気配を感じながら思った。


「こっちだ」


 ナギは唐突に彼の手を引っ張ると、道を曲がった。


「こっちからだと、薬局のある方に近い」

「よく知っているな? ああいう所に居たんだろ?」

「ああいう所に居たからって、皆が皆、閉じこめられている訳じゃない。アージェンには前貸しがあったが、私はあくまで、あそこの部屋を借りて商売していたようなものだったからな」


 そういう違いがあるのか、と彼はこんな場合なのに、感心した。


「ほら、あそこだ」


 彼女は三階建ての建物が軒を並べる辺りに来ると、一軒の店を指した。


「改装したな。ずいぶんと明るくなったものだ」


 立ち止まり、呼吸を整えてから、二人は扉を開く。中には、眼鏡を掛けた白い服の若い男が一人店番をしていた。


「いらっしゃい。何をお求めで?」


 にっこりと男は笑い、突然入ってきたこの学生の格好をした少女に声を掛けた。ほら、とナギはユカリの腕をつつく。


「あ……、すまないが、硝酸と硫酸とグリセリンを二瓶づつもらいたいんだが」

「硝酸と硫酸? それは劇薬指定がされてますから、身分証明が必要ですがね」


 彼女はそれを聞くと、商品台の向こう側の男の方へつかつかと近づいた。そして胸のポケットから、一枚の折り畳んだ紙を出して広げる。ん? という様な顔で、男は眼鏡の位置を直す。


「おやこれは」


 ほう、という顔になり、男はようございます、と言って棚の木製の扉を開けた。


「ああ、それと、……何だったかな」

「グリセリン」


 うながされ、ユカリはその薬品の名を上げる。


「ふうん? なかなか物騒な取り合わせだねえ? 心臓の薬だったら、ちゃんと医者へ行けばいいものを?」


 ふふ、とナギはそれを聞いて笑った。


「何なら協力してくれないか?」

「嫌ですね。捕まるのは困ることだし。売るのはともかく、使うのだったら、私は通報致しますがね?」

「その証明書を見て、意味が判るようだったら、協力しないか?」


 ナギはとん、と台の上に置いたそれを指さす。男はふうん、という顔でそれを見ていたが、それを手に取り、透かしたりひっくり返しているうちに、顔色が変わっていった。


「なるほど、なかなかとんでもないものを、お嬢ちゃん、お持ちだね」

「協力してくれないかな?」


 ちょっとお待ち、と男は一度店の奥へと引っ込んだ。


「大丈夫なのか?」


 ユカリはやや不安そうな声を立てる。


「大丈夫じゃなくても、いざとなったら脅してでも行くさ。ここの店主は、昔からちょっと変わり者で有名だったんだ」


 なるほど、とユカリはうなづいた。


「しかし変わり者って」

「なあに、かつては化学の分野で連合に留学していた、ということなんだが」

「げ」


 何でそんな人がこんなところに、とユカリは思わず歯をむき出しにする。


「と言っても本人がそうふれ回ってるだけだからな。実際のところは知らん」

「そんな人に協力させて、大丈夫なのか?」

「どうかな。まあ少なくとも爆発物の知識はありそうだと思わないか? 少なくとも私よりは」


 にやり、とナギは笑う。確かに、硝酸と硫酸とグリセリン、という薬品名を出して、それが即、爆薬につながるというのは、少なくとも化学的知識か、何かしらの軍事的訓練を受けたことがあるということだろう。


「それでおかしなまねをする様だったら、その時はこいつを当局に突き出せばいい」


 簡単に言うな、と彼は思った。しかし実際そうだろう、とも。そこでそんな大きな口を叩く奴が悪いのだ、と彼は自分に言い聞かせる。


「お待たせしたね。それで君たち、何処で花火を打ち上げようというのかい?」


 男は白い服を脱ぎ、巡回の医師が持つような薬品入れのカバンを持つと、靴ひもを強く結んだ。


「本気でつき合うつもりなのか?」

「退屈していたんだ」


 そう言って男はにっこりと笑う。ろくでもない奴だ、とユカリはあきれる。


「海だ」


 ナギは男に向かって短く言い放つ。


「私達は海であるものを壊さなくてはならないのさ。ところであなたは名は何と言うのだ?」

「ケスト・コヴァン・モヌムレイト」



 コヴァンという怪しい薬局の店員は、灯りを消し、鍵を掛けた。


「けれどあなた、何か待ち遠しそうな顔をしていたが、心当たりはあったのか?」

「なあに、ここ数日、警察局からこういう二人連れが居たら、局に通報する様に、言われてはいたんだ」

「何だって」

「なるほどな」


 ナギはうなづいた。


「私達が向こうの草原で連中の雑魚を捕まえたんで、当局も私たちが向かう方向へと矛先を向けたんだろう」

「それを判っていて、あなたはどうして」

「言っただろう? 退屈だって」

「そんな不謹慎な」

「不謹慎かねえ? あいにく当局が気にくわないのは、官立の高等専門に居た頃からだし、留学して帰ってくりゃどういう訳か約束されたはずの仕事口も無いし」

「要するに、不平分子という訳だな」


 ナギは楽しそうにコヴァンの言葉を要約する。そ、と彼はにやりと笑った。


「ああだけど、全ての政府にどうとかという訳じゃあないよ? お嬢ちゃんが持ってるのが、やんごとない方からの証明書じゃなかったら、私もこんなことしやしないって」

「抜け目の無い奴、ということでもあるんだな」


 あはははは、とナギは今度は声を立てて笑った。だがそれは一瞬だった。彼女の表情は厳しいものに変わる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?