「まあそんなこともあろうかと、わざわざ車を使ったのは正解だったかな?」
ユカリはふとつぶやく。
「車を使ったのか?」
コヴァンはその言葉に気づいて問いかけた。ああ、とユカリはうなづく。
「だとしたら、既にこの海南の車全てに情報は回っていると思っていいよ。ああいうのには、ああいうのの元締めとでもいうものがあって」
「判ってる」
ナギは今度はスカートのポケットから折り畳んだ地図を出した。
「だが我々はとにかく行くしかないだろう。そしてそれは早いに越したことはない」
「早く?」
「今夜から明日の朝に掛けて、かたを付けたい。ここからだったら、歩いてこの入り江に出ることは可能だろう」
「だけど歩きでは結構長いじゃないか?」
「だから、車を使おう」
「って車は」
「さて」
どうしたものかな、とナギはそのまま通りを歩き出した。どうするつもりだ、とユカリは思いながらも、その後をついていく。
やがて通りに灯りが一つ二つと灯り始める。おびただしい電線の向こう側の空が、赤く染まっていた。
その街灯の下に彼女は立ち、向こう側からやってくる車に向かって手を挙げた。何を、とユカリは思わず手を口に当てる。車はすっ、と彼女の前で止まり、扉を開けた。
「何をしてる。早く二人とも来い」
何を考えているのでしょう、とコヴァンは首を傾げつつも、それでも決してそれを深刻がっていないらしい。ユカリはその後について車の中に入る。
「おや、薬局の先生じゃないか」
「やあ。ははははは。えーと、君、行き先は何処だったかなあ」
コヴァンは軽く言い放ち、ナギの方を見た。
「海の方へ」
ナギは短く答えた。
「海の? ちょっとあるなあ」
「持ち合わせはあるんだ」
「夜だから、点灯料金も加算することになるがなあ」
「構わない」
「できればワシゃ構いたいがなあ」
ふうん、とナギはうなづいた。ユカリもその時には、どうやら乗車拒否の姿勢を見せているのだ、ということに気づいていた。
「なるほど。既に回っているのだな?」
何が、とは言わずにナギはそう言うと、袖のカフスを一つ二つと開けた。
「何……」
を、と言おうとして、ユカリは目を丸くした。鋭い刃が彼女の右手の指にはさまれていた。
そして彼女は左の腕を運転手の首にぐっと回すと、右手を運転手の首へと近づけた。
「動くな」
ひえ、と運転手の喉から悲鳴に似たものが漏れた。
「別にちゃんと動いてもらえば、何もしないさ。着いたら置いていけばいい」
「そ、それは」
「それとも、この場で首のすじ切られてせっかくのこの新車が汚れてしまうほうがいいか?」
汚れるとかそういう問題ではないと思うが、とユカリは思いながらも、その間にこの車内の様子を見渡していた。お、と彼は一つのものに目をつける。
「いやあ、物騒な方々ですねえ」
「先生おい! あんたもこいつらの仲間かい!」
「仲間じゃあないですがねえ。今さっき知り合ったばかりだし。でも車を出した方がいいようですよ」
判ったよ、と運転手は言って、だからその手を離してくれ、とナギに頼み込んだ。
「運ぶだけだよ!」
「もちろんだ」
ナギは刃を元の様にしまう。このあちこちがふくらんた服の中に、一体何が入っているのか、ユカリには見当がつかなかった。
「何をじろじろと見てる」
「いや、便利な服だなあ、と思って」
「そうだろう」
ナギはにやりと笑う。
「結構これも改良に改良を重ねたと聞いている」
「改良?」
「当初は、まだこの襟は襟としても、重ねそのものが違っていたんだ」
「あーあ、それは私も聞いたことがあるよ」
コヴァンが口をはさむ。
「それにしても懐かしいねえ。この形。さすがに私の知っているのは第一じゃあないから、えんじ色のタイだったし、濃紺の服だったけれど」
「えんじのタイに濃紺の服なら第八か。あそこは結構後にできた所だが、評判は悪くはないと聞いたが」
「なかなかに。高等専門の方が大学校予科よりも幅を利かせているところでねえ。おかげで私の様な奴でも留学することができたってわけで」
「留学は、最近は少なくなったって聞いてるけど……」
どうも共通の話題がこの二人にはあるようなのが、ユカリには何となく面白くなかった。
「うん、少なくなっているんだ。というか、もうほとんど、国では送っていないんじゃないかなあ。私かその後くらいの連中が最後じゃなかったかなあ」
へえ、とユカリはうなづく。
「それって、もう帝国の技術が、連合に負けないくらいのものになったということで?」
「いやいやとんでもない」
ひらひら、とコヴァンは狭い座席内で手を振る。
「下手な考えを身につけて帰って来られちゃたまらないからさ」
「下手な考え」
「そ。下手な考え。まあだいたい最初、留学した奴ってのは、向こうの常識とこっちの常識があまりにもかけ離れているのに衝撃を受けるんだよ」
「……って」
「ま、私があなたに言ったみたいなことだろうな」
おや、とコヴァンは面白そうに、頬杖をつく彼女の方を向いた。確かに、とユカリは顔をゆがめる。知らなければ知らないで済んだことだろう。
「昔だったら、まあ向こうの常識は向こうの常識、で済むだろうけれど、さーすがにこっちもこっちで、それなりに人々の間でも学問は広まっているし、技術も医学も進んで来ている訳じゃない。そんな時に、向こうの常識なんか下手に持ち込まれて広められてみなさいって」
「なるほどそれはまずいな」
下地の無い時代なら、別にどんな異端な思想が入ったところで、それを提唱する者が数名入り込んでも社会の体勢が崩れるということはない。だが、現在は、それなりに子供達は教育を受け、連合から入った技術で、こうやって自動車にだって乗っているのである。
そんな時代に、神話の様な存在を信じろ、と言い続けること自体、無理があるのだ。
だが、その「神話」が実在する以上、それを言い続けなくてはならない。
「まあ時間の問題さ。どう変わってくるかは知りませんがね。たださすがに希望を持って出かけて行って、帰ってみれば官職は無し~では、ちょっとばかり世界を呪いたくもなるでしょうに」
「呪ってなぞいないくせに」
しゃらっ、とナギは言う。
「おや、判りましたね、お嬢さん」
「だけど、退屈はしていたんだろう?」
「ご名答」
ナギはその返答を聞いて面白げに笑い―――
ユカリはその笑いを耳にして、思わずため息をついた。