真夜中、ラクシュリは一人出立の準備をしていた。
腰に小さな袋だけをつけ、質素な旅装を慣れたように着込む。
腰には国から持ってきたものともう一つ短剣がある。
ここで得た形ある戦利品といえばこれだけだろう。
だが、これは十分な価値がある。
これと、長い旅路で初めて得た仲間だけがあれば、これから辛くてもやっていけるように思えた。
窓を開け放ったラクシュリはゆっくりと下へと降りる。
ロープで階下へと降りてゆき、木の枝が近い場所から木へと飛び移る。
どれだけ警備が手薄でも正面から行けばそれなりに見つかってしまう。それを避ける為だ。
木をスルスルと降りるとそのまま裏門の方へ。
正門には見張りがいる。
そうして辿り着いた裏門はやっぱり人の気配がない。
ここからは素早く走り寄り、内側の閂を開けた。
「一人で行くつもりですか、ラクシュリ」
「!」
背後でした静かな声に体を硬くしたラクシュリはゆっくりと振り返る。
相変わらずの黒いローブを身に纏い、手には荷物が一つあるだけのグラディスが困った子でも見るように苦笑している。
読まれていたと分かる感じだ。
「なんだよ。引き止めたって行くからな」
「引き止めたりはしませんよ。ただ」
ゆっくりと歩み寄るグラディスは身構えるラクシュリの前まで来ると膝を折る。
そして、家臣が礼を尽くすように頭を下げた。
「私も一緒に連れて行ってください」
「はぁ?」
思いがけない言葉に素っ頓狂な声をあげる。
これから長い孤独な旅を覚悟していたのだ。
同行者なんて考えてもいない。
ラクシュリはグラディスを睨みつける。
そして、声を荒らげずに低く言った。
「お前、俺の旅がどれだけ辛いか知らないだろ。拠り所もなくあてもなく旅をするのは大変なんだぞ。しかも、俺には追っ手がかけられている可能性があるんだ。危ないんだぞ。何も好き好んでそんなのに付き合う必要はないだろ。ここはお前の故郷で、何不自由のない生活が約束されてるんだ。なのに」
「ここにはいられませんよ。どれだけロッシュが私を庇っても私は忘れる事ができないし、そのつもりもありません。この世界を一度滅ぼした女王は私の姉です。私の母と父を殺したのは、この国の王族です。それはずっと心に残る。周囲が許しても私が、その思いに耐えられない」
複雑な気持ちだったし、復讐だのなんだのと考える事はない。
でも、思いは残る。
それを思えば離れる事は悪くない。
外にはグラディスの知らない世界が沢山ある。
それを見て回るのもまた、きっと楽しいだろう。
戸惑うラクシュリを見上げ、グラディスは満面の笑みを浮かべる。
そして、彼の肩を掴んでやんわりと言った。
「それに、あてのない旅ならば二人の方がいい。倒れそうなら支えあえる。楽しい事は二倍に、悲しい事は半分になります。貴方が私を暗い底から助けてくれたように、今度は私が貴方を助けます。駄目ですか?」
とても穏やかで優しい笑みがそう告げる。
人に頼らず、自分だけの力で頑張って立ってきた。
だから、これからもそうだと。
ここに長居できないと思ったのも、助けられ、支えられ続けると自分だけでは立てなくなりそうで、それが怖かったから。
でも、もうそんな思いをしなくてもいいと、言ってくれるのだろうか。甘えても、いいのだろうか。
「ラクシュリ?」
「っ! 後で来なければ良かったなんて言っても、知らないからな」
そっぽを向いた彼の顔は照れているのか赤くなっている。
グラディスは少し笑って、それを見ないことにして立ち上がった。
「さて、出ましょうか。ここから北へ行くと港につきます。今から出れば朝一の船に乗れますよ」
「どこに行くんだ?」
「確か、南の大陸ですね。砂漠の大陸だと聞いたことがあります」
氷の大陸に来たかと思えば次は砂漠。
溜息をつくものの、暗い気持ちはそこにはない。
だってこれからは、一人の旅ではないのだから。
笑みを浮かべたラクシュリは静かに裏門を開ける。
そして、まだ暗い夜道を二人並んで歩き出した。
◇◆◇
王都から北に二キロ程行ったコーランヌ港は、本当に小さなところだった。
街というよりは村に近い。
物資を運び入れる倉庫と、その周辺で漁をしている漁師が住むくらいだ。
朝靄の港に停泊している中型船に、旅人はラクシュリとグラディスの二人だけ。
残りは全部貿易品だ。
寂しい船旅のようにも思うが、見知らぬ大勢よりは知っている小数のほうが会話も多いだろう。
それによく考えれば、ラクシュリはグラディスのことをあまり知らない気がする。
「見なくていいんですか、ラクシュリ。この大陸ともこれでさようならですよ」
「いい」
見れば名残惜しくなる。だからずっとラクシュリは船べりに背を預けて座っている。
グラディスはそんな彼に苦笑して、隣に同じように座る。
そして、ぼんやりと曇る空を見上げながら口を開いた。
「格子のない空を、私はずっと知りませんでした。そして、自由に旅をする日が来ることなど考えてもいなかった」
「囚われの身ってやつだったもんな。そういえば呪いのほうは解けたのか?」
当初の目的であったユグドラの事など途中からすっかり忘れていたラクシュリは、何気なく聞いてみる。
内心はドキドキだったけれど。
でもグラディスは軽く笑みを作って頷いた。
「術者が死んだ時点で呪は解けるものです。もうまったく、心配ありませんよ」
それに一度死んでいる。とは、さすがに言えない。
あの後もグラディスは遅れてきたラクシュリとジュリアには一度死んだという事を言わずにいた。
これはロッシュの為だが、言う必要もないので。
今があればそれで十分だし、ロッシュ自身も気にしているようだったから。