そろそろ出航だろう。水夫がバタバタし始めた。
荷物を全て積み終わり、船へと引き上げ桟橋を引き上げようという、その時だった。
ドーン! という地響きでもしそうな音が静寂を割った。
それは空へと向かって放たれた空砲だった。
さすがに何事かと立ち上がったラクシュリは、薄れていく朝靄の向こうに二頭の馬を見た。
身軽に走るその馬はこちらへとどんどん近づいてくる。
その距離が縮まれば縮まるほどに、ラクシュリの心臓は高鳴っていく。
嬉しいような、辛いような胸の痛み。
他の場所には目もくれず、二頭の馬は真っ直ぐにラクシュリ達が乗っている船の前に来た。
そして、波の音にも負けない声で呼びかけてくる。
「そこにいるのは分かってるんだぞ、ラクシュリ! 降りてこい!」
思わず身を隠してラクシュリは嫌々をする。
まるで子供のような仕草にグラディスは苦笑してしまう。
小さく丸くなって蹲る彼の表情を窺う事はできない。
だが、小刻みに震えているのを見れば予測はついた。
「降りて来い、ラクシュリ! お前が来ないってなら、俺が乗り込むぞ!」
「ラクシュリ、行きましょう。引き止めるつもりではありませんよ。ただ、お別れが言いたいだけですから」
「やだ」
「このままじゃ船は出港しませんし、船の人にも迷惑がかかります。大丈夫ですから」
小さな子をあやすような仕草と声音に、ラクシュリもしばらく抵抗したものの腰を上げる。
そして俯いたまま船を一度降り、追いかけてきたロッシュとジュリアの前に出た。
「まったく、この子は本当に。随分一緒に旅したってのに、挨拶の一つもないなんて。寂しいことするんじゃないの」
コンと軽く頭をこついたジュリアにも何の反応もしない。
ただ、顔を上げない。
元気のないその様子にジュリアの方が調子を狂わされる。
「ラクシュリ」
一歩前に出たロッシュがしゃがみ、視線を低くする。
そうすると今度は体ごと顔を背けてしまう。
こうなるとお手上げだ。最終手段は……。
拗ねた子供みたいなラクシュリに真っ直ぐに向き合ったロッシュはそのまま小さな体を抱き寄せる。
逃がさないように強く抱きしめられて、さすがのラクシュリも驚いて顔をあげ、腕の中でジタバタする。
「おい、なにすんだ!」
「素直に顔あげないからだ。本当にお前は素直じゃなくて可愛げがない」
「悪かったな! もとからこんな性格だ。離せよ!」
無理矢理に引き離したラクシュリは、やっぱり目を真っ赤にしていた。
鼻の天辺まで赤い。
大きな目はまだ濡れているし、肩もヒクヒクしている。
強がりな彼が見せる初めての弱い姿だった。
「こういうの苦手だから、黙って出てきたのに。追いかけてくんなよ」
薄汚れた服の裾で目元を拭い真っ赤にするラクシュリ。
それに溜息をつきつつも、ロッシュとジュリアはやんわりと笑った。
「お前に渡したいものがあったんだよ。それを渡しにきたんだ」
「俺に?」
鼻やら目やらを拭うラクシュリは観念して顔を上げる。
その首に、どっしりとした首飾りがかけられた。
金でできたその首飾りには、城で見たエンブレムが描かれていた。
「これ……王家のエンブレムだろ。俺なんかが持ってけるわけないだろ」
「いや、それはお前にだ。お前が俺達を忘れないように、渡しておくんだよ」
黒い髪をクシャクシャと撫で回すロッシュの笑みは、凄く優しく柔らかい。そしてどこか寂しそうだった。
そして再び、今度はとても優しく背中に腕が回る。
優しい抱擁は、本当に別れを惜しむようだった。
「ここがお前の第二の故郷だ。何かあれば必ず俺を頼れ。何があっても助けにいく。お前は俺の友であり、恩人でもある。辛くなったり、困ったことがあればここに来い。いいな」
故郷を離れてこのかた、一つのところにいることがなかった。仲間も作らなかった。
縁がなかったのも勿論だけれど、どこにも自分の居場所はないと思い込んでいた。
だから名残惜しいなんて、感じることはなかった。
けれど今は、こんなにも離れがたい。
別れがこんなに辛いのだと思い出した。
それでも行かねばならないのは、故郷を離れた理由と同じ。
彼らに迷惑をかけたくないし、離れる事が守ることに繋がるんだと知っている。
それに、きっと大丈夫なんだ。
目を閉じればちゃんとそこには彼らがいて、戻ってこれる。それに。
隣に並ぶグラディスをラクシュリは見上げる。
少々頼りないし、本当は何を考えているのか分からないし、まだまだ色んな顔がありそうだけれど一緒にいる人がいる。
だからきっと、これからの道のりは不安に眠れないなんて事はない。
「大丈夫だって、ロッシュ。俺はこれでも強いんだ。それに、頼もしい同行者もいるしな」
突然視線を向けられたグラディスは驚いたようだが、すぐに普段の笑みを見せる。
そしてロッシュに向き直り、一つ確かに頷いてみせる。
船は改めて帆を張り、広い大海へと出てゆく。
見送る二人を残し、ラクシュリとグラディスは小さくなっていく大陸を名残惜しく見守った。
「いい場所だったよな」
「えぇ」
短い時間だったような、長い付き合いだったような不思議な感覚が尾を引く。
でも、もう寂しいとかは思わない。得たものは変わらない。過ごした時間は変わらない。
それに、彼らも言ってくれたのだ。
「帰ってこい」と。
「さーて、次はどんなところだろうな。楽しみだな」
爽やかな潮風が黒い髪を撫でる。
空に向かってうんと伸びをしたラクシュリの表情はとても晴れ晴れとしていた。
神々の楽園は少しずつ遠く、波と風が二人の旅人を運んでゆく。
新たな旅路は順調快調、明るい未来へと向かっている。
fin