僕は低血圧だ。
低血圧とは、血圧が正常値よりも低い状態を指す。
収縮期血圧100mmHg未満が目安で、立ちくらみ、めまい、朝起き不良、頭痛、倦怠感、肩こり、動悸、胸痛、失神発作、悪心、食欲不振、胃もたれ、腹痛、顔が青白い。
つまり、ダルい。
しかも起きたばかりなので、世界がふわふわとしている。
いや、ふわふわしてるのは世界ではなく僕の意識のほうか。
それとも、本当に世界がふわふわとしているのか。
哲学的思考に至る夢うつつの中で、僕は目の前の木戸を叩く。
トン、トン、トン。
それにしても古い。
築四十年の木造アパートは、マッチ一本でこの世から消滅しそうだ。
トン、トン、トン。
いくらノックしても反応がない。
秋の朝は気持ちがよい。
渋谷の汚く臭い空気も吸い甲斐があるってものだ。
僕は一息ついた後、大きな声で呼びかけた。
「ロクさん。渋谷ロクさん」
いや、それにしても十時から働くとか拷問でしかない。
狂気の沙汰だ。
社会の奴隷、お金の奴隷。
そう、僕ら現代人は奴隷なのだ。
しかも、高架近くなので、電車が通る度にガタガタ揺れる。
あー、うるさいな。
言っただろう。僕は低血圧なんだ。
自律神経が乱れているんだ。
響くその音を今すぐやめてくれ。
そして、渋谷ロク、早く出てくるんだ。話が進まない。
「いるんだよね?」
俺はスーツの糸くずを払って戸を叩いた。
成人祝いで姉貴が買ってくれたダークスーツだ。
黒いヘルメットも併せてセンスいい。
僕のセンスは壊滅的だけど、姉貴はパーフェクトなんだ。
「ロクさん。朝マック。一緒に食べない? 僕、ヒマだからここで食べるよ。いつまでも待つ。言っておくけど、僕は一途だよ」
そこまで言っても出てこない。
ヘルメットを脱ぎ、朝マックの袋を開けて、ポテトを頬ぼっていると――。
ようやく、ご本人の登場だ。
「ほんっと迷惑なんだけど。あんた誰」
一発で分かったけど、こいつも低血圧だ。
かすれた声、青白い顔、ふらつく足取り。
寝起きの半開きの目はギロリとこちらを睨んでいた。
渋谷ロク。
写真では見ていたが、本当に十代女子だ。
何よりも目についたのは、切れ長の気の強そうな瞳。
透き通るような白い肌に、コントラストある黒髪。
美形は姉貴で見慣れているが、姉貴に匹敵する美形は見慣れない。
少し跳ねる心臓を無視し、気取られないよう手帳を広げた。
「こういうモンです。公安の特殊捜査課、品川ジュウ」
これ、やりたかったんだよね。
エンディングノート、一つクリア。
「ケーサツが何の用?」
「スカウト。キミを口説きにきた」
寝起きの少女は、ぽかんと口を開けていた。
しばらくして思考が追いついたのか、形のよい口をへの字に曲げた。
「は?」
「特殊捜査課は、公にできない特殊な事件を扱っている課でね。表向きは宴会企画部って窓際部署なんだ。何かしらの技能を持った人間たちで構成された秘密部隊。かっこいいでしょ。今は僕しかいないんだけどね」
「はぁ」
「何だよ、その反応。もっと喜んでよ。キミはそのお眼鏡にかかったんだからさ」
切れ長の目を細めて怪しむロク。
「怪しいし、興味ない、気持ち悪い」
「この前、東山病院でワクチン盗んだよね?」
閉められる戸を無理やり足先で止める。
「……脅しのつもり?」
「そうだけど」
ロクの目が一段と鋭くなった。
「私の犯罪を見て見ぬフリして口説きに来たってこと? 何のため?」
「ノンノン、これ以上は守秘義務。だけど、仲間になればぜーんぶ話すよ」
「だが、断る」
「お、ジョジョ好きなの? 僕も好きだよ。三期は二期超えないだろうと思っていたのに、よりおもしろくなり、四期は三期超えないだろうと思っていたのに、よりおもしろくなっていく。ここらへんは好みもあるだろうし、どれが一番おもしろいかは言い合いたいところだけれどさ。もっと普遍的に語れば、あの独特のキャラクターデザイン、独特の世界観がまず挙げられるだろうね。でもね、一番はやはりバトルなんだ。バトルでは常に先が予測できない。そこがあの作品の魅力の核なんだ。こんなこと、言うまでもないかもしれないけれどね。こんなの絶対に無理だろうという絶体絶命は、僕たち読者を引きつける。荒木さんご本人も言っていたけれど……」
ロクは勢いよく戸を閉めた。
しまった、話が長すぎたか。
時間短縮のために早口だったのもよくなかったのかもしれない。
元来、オタク気質の僕は、それでよく姉貴に注意されていたっけ。
こうなってしまっては、再度引きずり出すのは難しいだろう。
仕方がない。最終手段だ。
ドア越しの捨てセリフが効くかどうか……天運に賭けよう。
「あのホームレスのおじさん。生きてるよ」
一度閉じたドアが勢いよく開いた。
あらやだ、効果てきめん。
「さっさと契約書を出せ」
ようやく目が覚めたらしい。
少女の見開かれた目が、輝くような瞳が、激しい閃光が、一直線に僕の目を刺す。
あまりの勢いに、ちょっと驚いてしまった。
僕は一歩後ずさりして答えた。
「えーと……疑いもしないんだね」