私の急激な変化に、弟のジュウはずっと苦言をこぼし続けた。
ジュウは日本にいたときと変わらず、クラスの人気者でテストも満点。
勉強もしていないのに、その秀才っぷりは嫌味だ。
それでいて姉思い。
私はそんなジュウが嫌いだった。
双子とはいえ、弟のくせに、私より将棋も囲碁も強くて。
勉強も運動もできて。
大会社のオーナーである父親もあからさまに私とジュウへの態度が違った。
ジュウは跡継ぎとして、父からの期待を一身に浴びていた。
事実、高校を卒業した後はタンフォード大学の医学部に主席合格。
高卒の私とはえらい違いだ。
人懐っこい笑顔を見て思う。
死ねばいいのに。
ずっと、そう呪いながらジュウの大きな背中を見ていた。
左腕をきつく縛り上げる。
拳を握ると血管が浮かび上がる。
アルコールで消毒し、針を刺し入れる。
ポンプを押し込むと、血液にデザイナードラッグが混じっていく。
興奮と、幸福の光に、魂が遊離していく。
フレームインフレームの映画を観ているような感覚だ。
タバコの灰が落ちたのにも気づいたのは、絨毯が煙を上げてからだ。
私は――小さなミミズたちが泳ぐ空を眺めながら、ゆっくりと紫煙の輪を吐き出す。
極度の快楽は、しかしすぐに慣れてしまい、次の刺激を求める。
終わった後の罪悪感たるや。
悪寒や吐き気などの身体的な反動を抜けた後の「恥ずかしさ」こそ、私は最も嫌悪した。
それを塗り替えるように、再度のドラッグを入れる。
ハイの後のロー。
この「羞恥心」こそが、激しい生の残り香であり、死の手前なのだと知った。
だから、より濃い羞恥心を残そうと必死になった。
今日も今日とて。
ジュウの苦言を背中に浴び、派手な服で夜の街に繰り出す。
気づけば、私の身体はニコチン、タール、アルコール、睡眠薬、ドラッグ――あらゆる薬物に染まっていた。快楽と反動のデパートだ。
私だけでない。この街はドラッグに染まっていた。
さすがアメリカ。今の流行りはフェンタニル。
私は手を出していないが、モルヒネ系薬物とは化学構造が異なる合成麻薬で、モルヒネの百倍、ヘロインの五十倍もあるといわれている。
致死量はわずか2mg。
入手は簡単で友達や裏路地からも入手できる。
2mgってどれくらいか分かる?
粉末状態では鉛筆の先よりも小さく見えるんだ。
禁断症状で時が止まったかのように硬直した人間が街におっ立つ。
私みたいな不良品だって、挨拶くらいできらぁ。
「はろー、はろー、はろー」
ヘルメットの空気循環管から白い粉を入れ、虹色の幸せを摂取。
硬直した知らない女と踊る。
私とユポーは、ハイになると、ウイルスも気にせず、ヘルメットを脱いだ。
ウイスキーの瓶を投げ捨て、服も脱いで、静かな海に浮かんだ。
「自由だ」
しきりに繰り返すユポーは、不自由の鎖に雁字搦めに見えてワロえた。
そう告げたらユポーも笑ってくれた。
ウォッカやウイスキーを浴びて、またドラッグ。
学校にもいかず、ユポーやその悪友と毎日を過ごした。
海の近くのたまり場は、とにかく臭くて、薬品と煙と汗のにおいが充満していた。
コンクリート造のそのたまり場は、以前は炭鉱所だったらしい。
破れた皮のソファ、平台、ボコボコの灰皿。
カタカタと光を漏らす換気扇。カーテンの間からわずかに漏れる光。
タバコと汗と、薬品、酒臭、何かの焦げた匂い。
遠くかすかに聞こえる海の波の音。
その日は徹夜明けの午前四時で、まだ太陽は昇っていなかった。
夜の闇が、いつもと変わらず平和だった。
何となく、急激に熱が冷めていく。
私は、飽きた。
やりきったと思った。
死ぬには相応しい、夏闇の波音が煌めく。
色濃い影の中にユポーが立っていた。
「行こう」
私は笑みを返して、一緒に地下鉄の電車に乗った。
行先はロックアウェイビーチ。
ボードウォークが整備され、レストランやビールスタンドもある観光地だ。
朝五時なので誰もいないだろう。
そこで太陽を眺めながら死にたかった。
ユポーはいつもの調子だ。
私の死を盛り上げるため、最後の最後で刺殺するのもよいだろう。
何故、という顔で私を見上げるユポーを想像して鳥肌が立つ。
でも、私はユポーを突き放していた。
停車駅を発車する直前で、ホームに突き出していた。
彼はキョトンとしていた。
私のために育てた可愛いチキン。
そのチキンを私は逃がしてしまっていた。
心と身体は別々のようだ。
いや、違う。
私が思っているより、心は複雑なのかもしれない。
微笑む私を見て、何かを察したのか、ユポーは肩をすくめていた。
ユポーは連れていかない。私の最後に相応しくない。
ビーチに着いた私は、服も、下着も、ヘルメットを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。
少し泳いでから、木片のように漂う。
波が高いのですぐ死ねそうだ。
気持ちの良い朝だ。
nMORT-25ウイルスも日向ぼっこしているだろうか。
私の自分でも意味の分からない熱弁に、今日もユポーが「うん、うん」と繰り返す。
「聞いてますか?」
「うん」
「聞いていませんね?」
「うん」
いや、これは幻覚だ。
だってユポーは置いてきた。
まどりみに抱かれ、私は枯れ葉のように漂う。
まぶしい朝陽に包まれ、憧れていたものが、虚無が、死が私を包み込んでいく。
ビル・エヴァンスの枯れ葉が脳内に流れる。
気持ち良い揺らめきが、こじゃれたレクイエムが、私をどこかに連れていく。
それは船出の日を待つ少年、ショーケースのトランペットに憧れる少年の胸の高まりで。
手足をバタツカせ、必死にもがく蟻たちの姿が、脳裏を過った。
次に目覚めた時は――病院の一室だった。
死ねなかった。
だが、死には近づけた。
苦しいのに、気持ちよい、死に近づくその一瞬は、脳内麻薬で満たされた。
反動――。
ひどい頭痛の中、勢いよく布団を蹴り、テレビを見て日付を確認。
「……三日も寝てたんですね……」
身体のアチコチが痛い。
深呼吸するだけで胸や腹部が痛い。
それに、とても恥ずかしい。
目覚めの気付けに、ドラッグを入れたくなる。
そう、ドラッグを入れて、私は完成するのだ。
先生を呼んでくるという若い看護師。
カールにした金髪がよく似合う碧眼の看護師だ。
パタパタと鳴る靴音を背に、私は窓から飛び出す。
三階だった。
骨折、もしくはヒビが入った。
家に帰ればドラッグがある。痛みを和らげる。
激しく生を生きている。
だからこそ、胸を覆いつくす罪悪感、焦燥感、恥ずかしさが抑えられない。
消えてなくなりたい。恥ずかしい。私の存在が恥ずかしい。
そわそわする。
座っていられない。
家に帰ると、父親から殴られた。
ボタボタと落ちる赤は、不健康なわりに真っ赤っかだ。
「バカ娘が!」
鬼のような形相も、怖くはない。
私が睨みつけると、鼻を鳴らして抵抗してきた。
若い私が本気を出せば、いつでもこんな中年男など殺せる。
そう思えば、怒りも引いていく。
私の吐いた唾が、親父の新調したスーツにかかった。
激高した親父は、狂ったように私を殴った。
「ジュウを巻き込むな!」
「ハッ……何でジュウの名前が。どういうことです?」
「あいつは――」
そのあとに続いた言葉で、時間が止まったかのように感じた。
私は親父の言葉を聞き終える前に走っていた。
骨折した脚の痛みを堪え。さっきまでいた病院に。
病室のドアを乱暴に開ける。
ベッドの上には、双子の弟、ジュウが寝ていた。
ジャンクフード漬けで不健康そうな太った医者が言った。
「これが検査結果です」
手渡された紙を持つ手が震えた。
ジュウはnMORT-25ウイルスに感染していた。