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第2部 第2章 3

私の急激な変化に、弟のジュウはずっと苦言をこぼし続けた。

ジュウは日本にいたときと変わらず、クラスの人気者でテストも満点。


勉強もしていないのに、その秀才っぷりは嫌味だ。

それでいて姉思い。


私はそんなジュウが嫌いだった。

双子とはいえ、弟のくせに、私より将棋も囲碁も強くて。

勉強も運動もできて。


大会社のオーナーである父親もあからさまに私とジュウへの態度が違った。

ジュウは跡継ぎとして、父からの期待を一身に浴びていた。


事実、高校を卒業した後はタンフォード大学の医学部に主席合格。

高卒の私とはえらい違いだ。


人懐っこい笑顔を見て思う。


死ねばいいのに。

ずっと、そう呪いながらジュウの大きな背中を見ていた。


左腕をきつく縛り上げる。

拳を握ると血管が浮かび上がる。


アルコールで消毒し、針を刺し入れる。

ポンプを押し込むと、血液にデザイナードラッグが混じっていく。


興奮と、幸福の光に、魂が遊離していく。

フレームインフレームの映画を観ているような感覚だ。


タバコの灰が落ちたのにも気づいたのは、絨毯が煙を上げてからだ。

私は――小さなミミズたちが泳ぐ空を眺めながら、ゆっくりと紫煙の輪を吐き出す。


極度の快楽は、しかしすぐに慣れてしまい、次の刺激を求める。

終わった後の罪悪感たるや。


悪寒や吐き気などの身体的な反動を抜けた後の「恥ずかしさ」こそ、私は最も嫌悪した。

それを塗り替えるように、再度のドラッグを入れる。


ハイの後のロー。


この「羞恥心」こそが、激しい生の残り香であり、死の手前なのだと知った。

だから、より濃い羞恥心を残そうと必死になった。


今日も今日とて。

ジュウの苦言を背中に浴び、派手な服で夜の街に繰り出す。


気づけば、私の身体はニコチン、タール、アルコール、睡眠薬、ドラッグ――あらゆる薬物に染まっていた。快楽と反動のデパートだ。


私だけでない。この街はドラッグに染まっていた。

さすがアメリカ。今の流行りはフェンタニル。


私は手を出していないが、モルヒネ系薬物とは化学構造が異なる合成麻薬で、モルヒネの百倍、ヘロインの五十倍もあるといわれている。


致死量はわずか2mg。

入手は簡単で友達や裏路地からも入手できる。


2mgってどれくらいか分かる?

粉末状態では鉛筆の先よりも小さく見えるんだ。


禁断症状で時が止まったかのように硬直した人間が街におっ立つ。

私みたいな不良品だって、挨拶くらいできらぁ。


「はろー、はろー、はろー」


ヘルメットの空気循環管から白い粉を入れ、虹色の幸せを摂取。

硬直した知らない女と踊る。



私とユポーは、ハイになると、ウイルスも気にせず、ヘルメットを脱いだ。

ウイスキーの瓶を投げ捨て、服も脱いで、静かな海に浮かんだ。


「自由だ」


しきりに繰り返すユポーは、不自由の鎖に雁字搦めに見えてワロえた。

そう告げたらユポーも笑ってくれた。


ウォッカやウイスキーを浴びて、またドラッグ。

学校にもいかず、ユポーやその悪友と毎日を過ごした。


海の近くのたまり場は、とにかく臭くて、薬品と煙と汗のにおいが充満していた。

コンクリート造のそのたまり場は、以前は炭鉱所だったらしい。


破れた皮のソファ、平台、ボコボコの灰皿。

カタカタと光を漏らす換気扇。カーテンの間からわずかに漏れる光。


タバコと汗と、薬品、酒臭、何かの焦げた匂い。

遠くかすかに聞こえる海の波の音。


その日は徹夜明けの午前四時で、まだ太陽は昇っていなかった。

夜の闇が、いつもと変わらず平和だった。


何となく、急激に熱が冷めていく。


私は、飽きた。

やりきったと思った。


死ぬには相応しい、夏闇の波音が煌めく。

色濃い影の中にユポーが立っていた。


「行こう」


私は笑みを返して、一緒に地下鉄の電車に乗った。

行先はロックアウェイビーチ。


ボードウォークが整備され、レストランやビールスタンドもある観光地だ。

朝五時なので誰もいないだろう。


そこで太陽を眺めながら死にたかった。

ユポーはいつもの調子だ。


私の死を盛り上げるため、最後の最後で刺殺するのもよいだろう。

何故、という顔で私を見上げるユポーを想像して鳥肌が立つ。


でも、私はユポーを突き放していた。

停車駅を発車する直前で、ホームに突き出していた。


彼はキョトンとしていた。

私のために育てた可愛いチキン。


そのチキンを私は逃がしてしまっていた。

心と身体は別々のようだ。


いや、違う。

私が思っているより、心は複雑なのかもしれない。


微笑む私を見て、何かを察したのか、ユポーは肩をすくめていた。

ユポーは連れていかない。私の最後に相応しくない。


ビーチに着いた私は、服も、下着も、ヘルメットを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。

少し泳いでから、木片のように漂う。


波が高いのですぐ死ねそうだ。

気持ちの良い朝だ。


nMORT-25ウイルスも日向ぼっこしているだろうか。

私の自分でも意味の分からない熱弁に、今日もユポーが「うん、うん」と繰り返す。


「聞いてますか?」

「うん」

「聞いていませんね?」

「うん」


いや、これは幻覚だ。

だってユポーは置いてきた。


まどりみに抱かれ、私は枯れ葉のように漂う。

まぶしい朝陽に包まれ、憧れていたものが、虚無が、死が私を包み込んでいく。


ビル・エヴァンスの枯れ葉が脳内に流れる。

気持ち良い揺らめきが、こじゃれたレクイエムが、私をどこかに連れていく。


それは船出の日を待つ少年、ショーケースのトランペットに憧れる少年の胸の高まりで。

手足をバタツカせ、必死にもがく蟻たちの姿が、脳裏を過った。





次に目覚めた時は――病院の一室だった。

死ねなかった。

だが、死には近づけた。


苦しいのに、気持ちよい、死に近づくその一瞬は、脳内麻薬で満たされた。


反動――。

ひどい頭痛の中、勢いよく布団を蹴り、テレビを見て日付を確認。


「……三日も寝てたんですね……」


身体のアチコチが痛い。

深呼吸するだけで胸や腹部が痛い。


それに、とても恥ずかしい。


目覚めの気付けに、ドラッグを入れたくなる。

そう、ドラッグを入れて、私は完成するのだ。


先生を呼んでくるという若い看護師。

カールにした金髪がよく似合う碧眼の看護師だ。


パタパタと鳴る靴音を背に、私は窓から飛び出す。

三階だった。


骨折、もしくはヒビが入った。

家に帰ればドラッグがある。痛みを和らげる。


激しく生を生きている。

だからこそ、胸を覆いつくす罪悪感、焦燥感、恥ずかしさが抑えられない。

消えてなくなりたい。恥ずかしい。私の存在が恥ずかしい。


そわそわする。

座っていられない。


家に帰ると、父親から殴られた。

ボタボタと落ちる赤は、不健康なわりに真っ赤っかだ。


「バカ娘が!」


鬼のような形相も、怖くはない。

私が睨みつけると、鼻を鳴らして抵抗してきた。


若い私が本気を出せば、いつでもこんな中年男など殺せる。

そう思えば、怒りも引いていく。


私の吐いた唾が、親父の新調したスーツにかかった。

激高した親父は、狂ったように私を殴った。


「ジュウを巻き込むな!」

「ハッ……何でジュウの名前が。どういうことです?」

「あいつは――」


そのあとに続いた言葉で、時間が止まったかのように感じた。


私は親父の言葉を聞き終える前に走っていた。

骨折した脚の痛みを堪え。さっきまでいた病院に。


病室のドアを乱暴に開ける。

ベッドの上には、双子の弟、ジュウが寝ていた。


ジャンクフード漬けで不健康そうな太った医者が言った。


「これが検査結果です」


手渡された紙を持つ手が震えた。



ジュウはnMORT-25ウイルスに感染していた。


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