私を助けるため、ヘルメットを外して海に飛び込んだらしい。
私の様子がおかしいと、ユポーが連絡したらしい。
ヘルメットを外したからといって、必ずしも感染するウイルスではない。
私やユポーだってヘルメットを頻繁に脱いでいたが、感染したことはなかった。
仮に感染したとしても、無症状になる可能性もある。
それが、例よって真面目で、外出時はヘルメットを外すことがないジュウが。
たった一度の例外で、感染してしまったのか。
ジュウの宣告された余命は三年だった。
それでも他の感染者よりは長いほうだ。二十一くらいまでは生きれる。
それも親父が製薬会社のオーナーで、強い薬を使えばこそ。
まさか、私のせいでジュウまでドラッグ漬けになるなんて……。
皮肉で笑えた。
でも、私は1ミリも泣けなかった。
泣けなかったし、むしろ笑えた。
だって、そうだろう。
あれほどに憧れていた死に、私より先に近づけたのだから。
なのに、全然、微塵も、嬉しくないし、祝えないのだから。
私は腹がよじれるくらい笑いながら、岐路についた。
鏡の前に立つ。
久々に自分の顔を見た気がした。
太っていた頃からは想像もできないほど痩せていた。
頬がこけ、クマができている。死人のような顔を見て、ほほ笑んだ。
私の指先に、ハエが止まった。
それはハエだ。間違いなくハエだ。
サカナでも、カラスでも、ハチでも、飛行機でもない。
そして――その日から、私は変わった。
罪悪感なのか、何なのか今でもよく分からない。
でも、憑き物が落ちたような感覚だった。
私はドラッグを断ち、悪友も断ち、ウイルスやワクチンについて勉強した。
薬を抜くのは相当な根気がいった。
皮膚と筋肉のすきまをウジ虫がはい回る幻覚は、もはやスタンダードナンバー。
目覚めるとバスルームで血だらけになっていたが、まるで記憶がない。
体中が血だらけになるまで引っ掻き、頭を壁に打ちつける。
ミッキーマウスを探して、部屋中をひっくり返す。
グループセラピー、入院も長くは続かない。
集団ストーカーを妄想し、尾行を撒く。
激痛、意思が負けて薬に手を出そうとし、唇を噛んで耐えた。
ジュウの顔を思い浮かべれば、何でも耐えられると思った。
強烈な悪寒と、睡眠不足が深刻で、何錠も睡眠薬をかみ砕いた。
今思えば、睡眠薬もよろしくない。
医者に指示された飲み合わせだが、それでもハイになり、奇妙な行動をとってしまった。
今や、それがドラッグの禁断症状なのか、睡眠薬の影響かは分からないが、
アメリカから遠ざかりたくて、一時日本へ。
一人旅で九州を回っている間に、症状は落ち着いていった。
自然を見ると落ち着く。
それが生まれ故郷の田園風景や、滝であればなおさらだ。
症状が落ち着いたら、すぐに大学に入学して学年一位。
だが、大学の三年という時間は長すぎる。
私はジュウでも成し遂げられなかったアメリカ第一位の成績表を親父に叩きつけ、親父の経営する製薬会社で働かして欲しいと頭を下げた。
断られると思っていたが、親父は首を縦に振った。
あぁ、こいつにとって、私かジュウかはどうでもよかったのだ。
会社を存続し、後継者になる優秀な者がいれば。
努力をしたから変われたのか?
そう問われたら違うと答えるだろう。
恐らくもともとのパワーは弟のジュウよりあった。
ただ、素直になるだけで、他人の言葉に耳を傾けるだけで、世界の色が変わった。
私は会社で専門部署を作り、ウイルスの研究に明け暮れた。
そんな私ジュウが会いに来てくれた。
顔面蒼白、痩せた体。ジャンキー特融の体臭。
車いすは脱したものの、ふらつく足取りは頼りない。
一八〇センチを超える長身が、不思議と幼く見えた。
ユポーを思い出して笑ってしまう。
「何かおかしい?」
「どこもおかしくありませんよ」
ジュウは健康だった頃を思わせる笑顔を作った。
でも、それは作ったものだ。
無理をしている。
それでも、その無理が何のためなのか、透けて見えるから愛おしい。
「僕は嬉しいよ。姉貴がまともになってさぁ」
「まともじゃないですよ。よく宇宙人と言われます。根っこは変わっていません」
白衣を身にまとった私は、確かに以前の私とは違う。
なお、ジュウはスタンフォード大学の医学部を退学したと聞いた。
その話はショックだったけど、それもそうかと思う。
生きられる残りの時間を勉強に使ってどうなる。
彼に未来はない。
私が、奪ったんだ。
「病気になると体質も変わるもんなんだね。低血圧でさ。妙に世界がぐにゃぐひゃだ。薬の後遺症だとか、病気の進行とかでもない。むしろすごく安定している。だから、心配しないで」
己がまともに立てていない自覚があるのだろう。
私を心配させまいと、次々と言い訳を並べ立てた。
そんなことを聞きたいんじゃない。
私からもっと話すべきことがあるだろう。
謝罪、後悔の言葉。
何故、怒らない? という問い。
でも、開いた唇は、何も告げずに閉じられる。
どんな謝罪も、前向きな言葉も、後悔も、真摯な行動には勝てない。
それを分かっているから、何も返せなかった。
饒舌なジュウも弾切れ。
沈黙が気まずくて、窓の外を見る。
飛行機が飛んでいた。
ハエではない。
サカナでもない。
カラスでも、ハチでもない。
ジェット機だ。
その瞬間、私は何故か泣いていた。
ああ、そうか……。
隣に立つ、強い男を見ていて気付いた。
私はジュウに嫉妬していたんだ。
誰からも愛されているジュウに、嫉妬していたんだ。
ジュウも私のことは「出来損ないの姉」だと思っているに違いない。
出来損ないの姉に接して、優越感を得ていると考えていた。
そう思い込んで、殺したいほどに憎んでいたんだ。
その優しさも、全部、自己満足のためだと思い込んで。
私はユポーの根の優しさの中に、ジュウを見た。
だから、最後まで巻き込めなかった。
見るがいい。
この世でたった一人、この男は私に無償の愛を注ぎ続けていたんだ。
死への渇望は、違う。違ったのだ。
愛の渇望だったのだ。
そして、私は愛されていた。
愛を確かめるために、私は壊れたふりをした。
バカな弟は、全身全霊をかけて、それに全額ベットした。
気づくのが遅かった。
遅すぎた。
私は、リスカするメンヘラ女子高生の延長線上、いや、むしろ、その手前に突っ立って、寂しく独りで泣く赤子だったのだ。
誰かの興味を引く自傷の一種だったためか、私は強いドラッグには手を出していなかった。
それでも、ドラッグを絶った今も、急激に「恥ずかしさ」を感じる瞬間がある。
これはドラッグがなくても感じていたものなのかもしれない。
シャワーを浴びてリラックスした時。
テレビを消した時。
缶詰を開けた時。
それは、どこにでも潜んでいる。
私も普通の人間だったのだ。
心の底を叩けば、寂しい音がする。
これは「恥ずかしさ」ではなく、きっと「寂しさ」の兄弟だったのだろう。
意味のない羞恥心に、消えたくなる日もある。
視野が狭くなり、深淵に吸い込まれそうになる。
それはきっと、誰もがそうなのだ。
ジュウが去った後も、私は研究や検査を続ける。
そして、分かったことがあった。
「ははははは! ふひひひひひひひひ! あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
声を出して笑わずにはいられない。
お腹が裂けそうになるほど笑わずにはいられない。
それはそうだ。
まさか、の盲点に笑いが止まらない。
念のための検査で知った。
これまで一度も定期検査を無視してきたツケがこれだ。
「私もnMORT-25ウイルス感染者だったのですね」