まず、感じたのは換気扇の音、それから妙な薬品臭だ。
目を開けると、コンクリートの天井と暗めの照明が見えた。
上体を起こして周囲を確認する。
窓はなく、防音されているのか外の雑音もない。
整理整頓とはほど遠い部屋は、PC、薬品、試験管、ガジェットやガラクタに溢れていた。
出入口のドアは一つ。
車など外部の音がしない。
ただ空調の音だけが流れていた。
まさか地下か?
視線を下げて両手を見る。
手足や腹部には、包帯が巻かれていた。
慣れない枕だからか、頭痛に目を細めていると、ドアが開いた。
「ハロー、です」
現れたのは、先ほどまで下水で取っ組み合いをしていたナナナだ。
時間の感覚がないので、本当に「先ほど」かどうかは分からんが。
ナナナはPCのゲーミングチェアに腰掛けると、くるりと回ってこちらを向いた。
脚を組んでいるが、色気というよりまだ幼さが勝る。
ピンク色のツインテールを指で弾き、ニンマリとした顔でこちらを見ていた。
「どゆこと?」
「あなたはトゥルー・エンドルートに突入したのです」
ぱちぱちぱち。
「意味が分からない」
「あなたは合格したのです。篠崎五郎さん」
「だから、説明しろよ」
うんざりして肩を落としたところで、ナナナは急に立ち上がった。
PCに備え付けられた照明を背に、逆光で顔がよく見えないが、すごみがある。
「実は私たちはワクチンを製造できていません。あなたたちが盗んだものは偽物です」
「は?」
あまりにも予想外なセリフで――。
俺は反射的に声を漏らしていた。
気にせずナナナは続ける。
「私もワクチンが欲しいのです。でも、ワクチンは、ある金持ちの集まりが独占していると考えています」
「金持ち?」
「はい、アメリカ在住の金持ち三人。三人合わせて総資産五兆円超えのオバケ大金持ちです。三人は自分たちを『図書委員会』と呼んでいました。隠語の一種ですね」
「……」
正直、急な話すぎて言葉が出ない。
だが、違和感もあった。
だから続きの言葉を促す。
「……続けろ」
「そもそも今世界を襲っているウイルスは、その『図書委員会』が人為的に作ったものです」
「コロナの時もそういう話は出たな」
「陰謀論みたいですよね。でも真実なんです。私はその『図書委員会』に喧嘩を売りたいのです。何が何でもワクチンを入手して、世界を救うのです」
「……」
「しかし、あまりにも巨大な力を持つ三人です。立ち向かうとなれば、相応のリスクがあります。倫理観、責任感、頭脳、度胸、すべてが揃った仲間を集め、私は巨悪に立ち向かう必要がありました」
「ま、まさか……」
「そうです。これはテストだったのです」
「ざけんな! まさか……タツさんも?」
右手をベッドの端にぶつけ、その激痛に顔を歪める。
そんな俺を落ち着かせるように、ニッコリ笑顔を返すナナナ。
「ふ、ふざけんな! 俺がどんな気持ちでタツさんの話に乗ったと思ってるんだ!」
「落ち着いてください。タツさんの過去話は本当ですよ。ウイルスのせいで娘を亡くしています。だから私の仲間になった訳ですし」
以前、タツさんが「信頼」について語ったことがあった。
あの渋い顔、渋い声で「俺は、こいつには裏切られていいって思って誰かを信じるんだ。そうだろう、人間は誰でも裏切る。期待なんざしないがいいのさ」とか何とか。
完全に伏線じゃねぇか!
俺は許さねぇからな!
タツさん、今頃どっかで笑ってやがるな!
会ったら一度はぶん殴ってやる!
「つか、テストだったらこんなケガ負わせなくたって」
「そうですね。今回は私も命の危険感じたので反撃させていただきました。ですが浅く斬りましたよー?」
「嘘つけ! めちゃくちゃ痛かったぞ!」
「私が人殺すの大好き! とかも嘘でーす」
意味が分からなさ過ぎて頭が重い。
それでワクチンを高額で売る理由を尋ねても「何ででしょうね?」とか抜かしてたのか。
からかわれたのではなく、そこまでは考えていなかっただけとは……。
設定の不備、そう考えれば、確かに腑には落ちる。
まだ高揚する全身を深呼吸で閉じ込める。
冷静になれ。
よくよく考えれば、これは俺がロクにしたことでもある。
因果応報、自分を納得させろ。
感情に振り回されるな。
熱が冷えていくように、徐々に普段を取り戻す。
まだぼやけた視界、鈍い頭でナナナの目的を考える。
彼女の本当の目的は何なのか。
あぁ、そうか――。
「目的は……まさか、ロクか?」
ナナナが指を鳴らした。