「やはり賢いですね。最大の目的は渋谷ロクです。ですが、篠崎五郎。あなたも目的の一人ですよ。あなたたちの能力は折り紙付きです。でも、それだけではダメなのです。背中を預けられる人間か知りたかったのです。それだけ危ない橋ですから」
「人を試すようなやつに、俺が協力すると思うのか? 帰るって言ったら?」
「仕事の報酬十億をお支払いしてお帰りいただきます」
「そう言って口封じに殺す気だろ?」
「口を封じようが封じまいが、あなたの言葉を信じる人はいません」
「安心させて殺す時の常套句だ……」
「じゃあ、殺すということにしてもいいですよ。私は人を殺したことありませんし、殺したくもありません。それは人間である以上、当たり前の感情です。いえ……本能的には人間は殺しあう生物ですがね」
「難しいことはいい。それで仲間になるって言ったらどうするんだ?」
「……ウイルスの真実を教えましょう」
ゾクッと背筋が凍る声音。ウイルスの真実。
「そんなんで俺がなびくとでも?」
「まー。なびかなければ、渋谷ロクさんを口説くまでです」
ダン――。
俺はコンクリートの壁を叩いていた。
ほとんど無意識だ。
「それは……止めてくれ。危険なんだろ?」
一度、情が沸いてしまえば、こんなにも弱いのか。
世の中の酸いも甘いも十分、味わってきたと思っていた。
冷徹で、アングラーな人種だと自身を評していた。
ゴリラに見えて、人情家のタツさんの影響なのか。
それとも、俺本人の資質なのか。
俺はロクを庇っていた。
あぁ、そうか。見えてきた。
俺がこう言うこと分かった上で、ナナナはロクを見逃した。
つまり、ナナナの最優先は俺の確保。
そうすれば、ロクも切り崩せると考えているんだ。
クソ。溜息しか出ねぇ。
俺以上に頭が回るであろうナナナが、考え練った筋書きだ。
ひとまず乗っかるしかない。
ナナナはくるりと翻し、白衣の背中を見せた。
「エイズウイルスは、人間のDNAを書き換えます」
「おいおい、まだハイともイイエとも言ってないぞ」
「『図書委員会』が作ったウイルスもそうです。感染者のDNAを書き換え、変異するのでワクチンが作りにくいのです」
「その金持ち三人は、何故そんなものを作ったんだ?」
「人間の可能性を広げるためですよ。人間とは単体ではなく総体で人間なのです。社会性の生物とはよく言ったものです。個性の開き、つまり個体差によって、お互いの得意不得意を支えあい、社会を築き、爆発的に増えることに成功しました。その個性の開きを、もっと極端にするのが目的で作られたウイルスです」
「……どういうこと?」
振り返るナナナ。だが、ニンマリ顔は崩れていない。
どこかの大学の教授のように、歩きながら説明を始めた。
「具体例を出しましょう。これまでの人類はIQ二〇〇がせいぜいでした。ですが、今回のウイルスに感染した者は、DNAが書き換えられ、IQ三〇〇が以上の人間も現れました」
「おいおい、まさか……」
「そうです、私も渋谷ロクも、篠崎五郎も……感染者なんです。無症状なので感染しているとは気づきにくいですが」
俺が頭良いとは思えない。
それこそ死ぬほど努力して医学部にも入った。
だが、渋谷ロクやナナナ。
こいつらが別格なのは分かる。
俺の無言に、ナナナが畳みかけた。
「上振れすれば、無症状で能力が引きあがる。下振れすれば、奇形や死亡につながる。人類の可能性を飛躍させるウイルス。それが今世界で大流行しているウイルスなのです。人類そのものを次のステージに強制進化させようとしているのです」
「何故、そんなことを?」
「ビルゲイツやイーロンマスクなど、兆単位を持つ突き抜けた金持ちたちの興味が、何に向かっているか分かりますか?」
「……知るか。まず金くれ。そしたら分かる」
クスリと笑うナナナが劇的に手を広げる。
「人類の危機的状況からの脱出、もしくは回避です」
ハイになったかと思えば、今度は背中を丸め、白衣のポケットに手を突っ込む。
ローなテンション、くぐもった声で続ける。
見ていて飽きないヤツだ。
「これは実際にあった出来事ですが、兆単位の資産を持つ金持ち五人がシリコンバレーの頭脳と呼ばれる有識者を砂漠のリゾート地に招き、講演をお願いしました。相当な報酬だったと聞きます」
歩みを止め、チラとこちらを見る。
「当初、その有識者は有益な暗号資産情報や資産形成について聞かれるだろうと考えていました。しかし、全然違いました。いえ、厳密には暗号資産などの話で始まりました。ですが、それは人間性のチェックだったのです。徐々に質問は本題に切り込みます。温暖化で移住すべき国はアラスカかどうか。パンデミックにおいて最も安全な地。細菌戦争、核戦争のリスク。そして、質問は更なる核心に迫ります」
ナナナは再び歩き出し、俺は目で追うのを止めた。
「世界が危機に陥り、暗号資産が価値を失ったあとの世界。警備員の忠誠心を保つ方法。人間をゼロにして警備ロボットを作ったほうがよいのかどうか……など、世界が滅ぶことは確定で、それにどう対処するか……の質問を投げかけたのです」
ナナナは言葉を区切り、小さく息を吐いて椅子に座った。
「人類は滅亡に向かっており、核融合によるクリーンなエネルギー事業の加速、火星移住計画、新しい食料計画。これらは一刻も早く行わなければならない。それら問題や課題に立ち向かうため、社会には、もっと、もっと頭のいい人間が必要だと考えました。だから、金持ちたちは教育にお金をかけています。合法・非合法含めてね」
慈善活動、教育への投資、確かにそれらはよく聞く話だ。
その意図は、私欲を超え、人類の未来について考えていたのか?
大層なビジョンなことで。
金持ちってのは、よほどの暇人なんだな。
「そして、気づきました」
「……」
「人間は個性によって進化したことに。その個性のふり幅を広げることで、より優秀な人間を生み出し、人間を進化させるプロジェクト。死人や奇形も増えるでしょうが、人類総体のためには仕方がない。それら急務の課題に新人類をあてがう計画。知らないうちに人類を強制進化させる計画。倫理を犯した『図書委員会』による最悪のプロジェクト。それが今世界で起こっているパンデミックの正体です」
「はははははははははははははははははははははははははははは」
ひとしきり笑った後に、しかしロクの異常な頭の良さを思い返して嘆息に変わる。
そういう人間は確かに増えた。
ニュースでもそれらしきことは言っていた。
「私は世界中に網を張り、進化した人間を追いました。その最高峰に君臨する傑作こそが、推定IQ三〇〇渋谷ロクなのです。ま、IQだけで賢さは測れませんがね」
ナナナは俺の隣に座った。
防音室で他に音がないからこそ、ベッドの軋む音が目立って響く。
「それだけ異次元に頭がよいと一般の人間とは合いません。一般人からすれば、我々は宇宙人です。想像していた通り、渋谷ロクは自信を喪失した不良娘でしたねぇ。自分自身が劣っている、おかしい異質な存在だと誤認したのです。ロクの目は私と同じです。私たちの人生は、ウイルスによって破壊されました。ムカつきませんか?」
ナナナもいろいろあったんだろうな。
確かにロクと似た目つきをしている。
かわいげのない、何かを悟った濁った目だ。
夢とか希望とかで、キッラキラにしてあげたいぜ。
「俺はお前らと比べたら雑魚頭脳だ。医者になれるくらい頭がいいだけだろ。別に普通の生活させてもらってるよ。ま、ウイルスのせいでヘルメット外せないのはクソだが」
「ウイルスを生み出したゼロ博士は、その金持ちの一人でもあります。そして、そのゼロは今、日本に住んでいるとの情報を掴みました。博士からワクチンの作り方を吐かせ、この狂った世界を終わらせます。それが私の本当の願いです」
ナナナの細い首筋、横顔をチラと見て言う。
「一つだけ約束しろ。ロクは巻き込まない」
「あなたが頼りない訳ではないですが、渋谷ロクは特別です。何といっても、私より頭がよいので。ゼロの居場所を見つけるには、ロクの頭脳が必要です」
そう言うと思ったぜ。
だから俺は考えていたことを披露する。
「……それじゃあさ、こんな方法はどうだ?」