「
誰かから優しく肩を叩かれ、僕は起床する。
眼前からのダブルベッドの隣で僕の手を優しげな顔つきで握る女性。
そうか、僕は魔王を封印し、現実世界に帰ってきたのか。
でも、そこにいた
「
「何って、私たち、恋人通しなんだから当然でしょ」
そこにいた彼女は、あの
しかも彼女は、僕の隣でパジャマを着て寝ている。
身に覚えがない着崩した水玉のパジャマ。
僕は未成年なのに、酒に酔いつぶれて知らぬ間に、この水玉模様の女を抱いたのか。
「ああ、何てことをしてしまったんだ……」
「さっきからどうしたのよ?」
「岬代はどうしたんだよ!?」
「きゃっ、唾が飛んだじゃない!? 目の前で騒がないでよ?」
上体を起こした桜が人差し指で耳の穴を塞ぎ、少しばかり身を屈める。
「いいからお前は何なんだよ。僕の気を惹こうとしても無駄だぞ。岬代はどこだ!」
「ちょっと落ち着いてよ」
「だったら彼女を呼んでくれ。岬代に謝りたいから!」
「仁、いい加減に落ち着いて!!」
桜は僕の目をマジマジと見つめ、震えるこちらの両腕を掴み、心から抵抗している僕にひたすら説得してくる。
「岬代はもうこの世にいないのよ」
「何だって?」
「彼女は列車事故で亡くなったのよ」
僕の思考が凍りつき、熱い勢いにつられて、岬代への想いが弾けそうになる。
「何でだよ、僕は歴史を変えたじゃないか」
「さっきから何を言ってるの? ここはゲームの世界じゃないのよ?」
混乱していた僕を前にして、桜から説明を受ける。
岬代は一ヶ月前に列車事故で命を落としたこと。
でも彼女は借金苦の自殺ではなく、とある女性を助けようとして、列車の犠牲になったこと。
その女性は、桜よりもかなりの年配で
彼女はある日突然、亡目になった蔭谷を影から支え、いつものように眼科に向かおうと電車待ちをしていたら、線路内に蔭谷が誤って転落してしまった。
そこへ妻がすかさず助けようとし、向かってきた電車にはねられた。
という筋道だったが……。
「偶然にも反対側のホームに岬代がいてね。何やら叫びながら、線路内に飛び込んでいったの……」
「岬代は何て叫んでた?」
「仁の努力は無駄にしないって……」
僕は心から切ない感情を吐いていた。
彼女は何もかも知っていたんだ。
どれだけ努力しても、流れてしまった過去は変えられないと……。
でも先のことは別。
だったら、一寸先の未来を変えるしかない。
いかにも岬代らしい答えだった……。
「それで桜が、僕に寄り添うようになったのか?」
「ううん、それは違うよ。
岬代を失い、落ち込んでいる私を君が慰めてくれたの」
「僕にそんな度胸があったとはな」
「何言っているの。少しは自分の発言に自信を持ってよね」
「──世界を救った勇者でしょ」
桜が僕に絡めていた指を柔らかく包み込む。
その白くて細い薬指には、銀色に輝く指輪がはめられていた。
「桜」
「なに?」
「蔭谷に会わせてくれないか?」
「分かった」
桜がベッドから起き上がり、大きく伸びをし、乱れていたパジャマを整える。
「それから僕は桜と一晩寝たのか?」
「ううん。これは私の寝相が悪かっただけで、寂しそうにしていた君の背中に私が寄り添っただけ。別に何もしてないよ」
桜がにこにこと笑みを浮かべて、チキンな僕の頬を人差し指でツンとつつく。
「そうか。じゃあ、蔭谷の家に行く支度をしよう」
「えっ、今すぐなの?」
「ああ、
「ふふふ。それ正しくは
「まあ、そうとも言うかな」
シャワーを浴びにいった桜から離れ、僕はピョンとはねた寝癖を整えながら、彼に伝えたい言葉を探していた……。
****
『──何とでも言うがいい。ワシは人殺しじゃ』
よく晴れた昼下がりの午後、インターホンから響く彼の叫び。
これには参ったな。
蔭谷がいる古びたアパートを訪ねても、一向に出てくる気配を見せない。
前回の高級マンションと違い、人里を離れて住んでいたとは言え、蔭谷がこんなに強情な性格だったとは……。
まあ、そうじゃなければ、異世界で魔王なんか務まらないよな。
『ワシが異世界では魔王をやり、あの世界を作らなければ、誰も犠牲は出なかった!!』
「だから、その件に関しては、もういいじゃないか」
『それでは駄目なのだよ。どんな綺麗事で塗り固めても犯した罪は変わらん。この目だけでは償いははれん。ワシは永遠の罪人なんじゃ』
さっきからこんな風に、蔭谷との意地の張り合いだ。
『さあ、もう帰るんじゃ』
「いや、僕は帰らないよ!」
苛立った僕はインターホンに向かって、声のトーンを高くして張り上げる。
「もう過ぎてしまったことだろ。岬代のことは仕方ないさ」
『……』
「それに岬代は、あんたのことを信頼していた。前回のように、金に目がくらんでヤバいことをしでかさず、目の前の恋人を精一杯愛した。そこのどこに悪い要素があるんだ!」
『……』
僕と蔭谷を繋ぐインターホンに一瞬の沈黙が訪れる。
その緊迫に耐えられず、青い空を見上げると、風に揺れた木がざわめき、
ひとひらの
それは無言の励まし。
大丈夫。
もう、僕らはつまずかずに歩いていける。
『そうじゃな。岬代君ならそう思っていたじゃろうな』
「蔭谷、そんなつまらない固定概念なんて捨てて乗り越えろよ。教師なんだろ?」
「──仁、話の腰を折って悪いけど、もう蔭谷は教師じゃないよ」
「えっ? 桜、どういうことだ?」
「盲目になってから、周囲から嫌がらせを受けて、二週間前に退職してる。それで少し前まで、教師生活の傍らにリアルみたいに体験できる異世界ゲームのプログラミングをしていたみたいだけど、光を失ってからこの通り、現実と異世界の区別がつかなくなっちゃって……」
「そうだったのか……」
昔は岬代の弱味を踏みにじる嫌な教師と思っていても、いざ自分に立場が逆転すると、その反動が返ってきた。
強い自分が弱い立場になって、初めて分かった盲目の教師。
その教師を辞めた男が、今、体全身で僕らの発言を拒む。
蔭谷は心に深い傷を負ったのだった……。
でも、だからと言って、こんなところまで来て、『はい、そうですか』と帰るわけにはいかない。
蔭谷は退職金で海外で目の手術を受け、そのまま
飛行機で海外へと飛び立つのは明後日。
もうそんなに時間は残されていない。
「蔭谷、あんたにも新たな人生を歩んでほしいんだ」
『お主に何が分かる?』
「分かるさ、岬代の家に彼女の日記が遺されていたんだ」
『何じゃと……』
ドアノブがガチャリと音を立て、無精髭でぼさぼさ髪のサングラスをかけた蔭谷が出てくる。
青い作務衣の彼は無言で、岬代による点字で刻まれたノートを受け取り、そのページに黙々と指先を滑らせていた。
『蔭谷教師は、数学が苦手だった私に色々と勉強を教えて下さった、優しいおじいちゃん。
今度、そんなおじいちゃんも、お誕生日を迎えます。
さて、近いうちに電車で出かけてプレゼントを買わないと。
おじいちゃん、ビックリするかな。
まあ、驚いてくれませんと、サプライズになりませんからね。
蔭谷教師のセンスに合うような物があるかな……』
蔭谷の指が途端に止まる。
今、彼はどんな心境なのだろう。
しばらく止まっていた動作から、彼女が書いた本音の続きを追いかける。
『それから目が見えなくなっても悪いことじゃないよ。神様がきちんと頑張っている後ろ姿を見てる。自分もそんな蔭谷教師を笑って出迎えたいな。
人生なんて生きてる限り、いくらでもやり直せると……。
だから私はこの文面を点字にしてプレゼントと一緒に捧げようと思います。
蔭谷教師、お誕生日おめでとう。
これからもめげずに教師頑張ってね』
蔭谷の老眼鏡の目尻から、光の粒が次々とこぼれだす。
彼は声を詰まらせ、ただ泣いていた。
「……岬代君、ありがとう」
そうだ。
偶然にも彼女は、プレゼントを買いに行こうと駅の構内で電車を待っていた。
そこで蔭谷夫妻を助けるために、命を落としたんだ……。
運命とは残酷だ。
まるで彼女は、初めから事故で死ぬフラグになると言うことに……。
そんな蔭谷が子供のように泣きじゃくっていると、後ろから静かに誰かに抱き締められていた。
その細身の体つきからして、蔭谷の現在の奥さんだろう。
影の彼女は耳元で何かを囁くと、蔭谷は僕らに深く一瞥した。
「本当にありがとう……」
彼のしわがれた声が、夕焼けの大空のように馳せて届いた気がした。
****
一週間後……。
僕たちが見届けた蔭谷夫妻は渡米し、新学期が始まった。
高校三年を迎えた春。
岬代の居なくなった席に新しい生徒が埋まり、何事もなく時は進んでいた。
そして季節は五月を迎え、僕と桜はお互いの進路を決めて、別々に歩き出すことを決める。
これから先、違う大学へ進むゆえに、永遠のシルバーリングで紡いだ恋愛ごっこをするわけにはいかないと、二人で話し合った結果だった。
僕は新たな道を歩み出す。
愛しの岬代が、笑いかけているような気がした。
そんな放課後の帰り道、僕の頭上で電信柱の作業をしていた建設員が何やら叫び出した。
「君、避けるんだー!!」
夕暮れの上空から降ってくる輝く物体。
青い工務箱が開き、作業用のスパナが顔面に飛び出してくる。
僕の目の前で凶器だった物は息をつく暇もなく、僕の体を貫いた……。
****
『じん、じん……』
何だよ、うるさいなあ。
もう少し寝かせてくれてもいいじゃないか。
『じん!』
「ああー、分かったよ。起きればいいんだろ!」
「ジン、良かったです」
「ミヨなのか?」
「はい、そうですよ。急に倒れるから心配しました」
ああ、ミヨが心配気なまなざしで側に座っている。
どんな内容かは記憶にないが、どうやら僕は悪い夢を見ていたようだ。
「兄ちゃん、オラもいるぜ」
「別にお前は呼んでいない」
「ムキー、嫌な兄ちゃんだな!」
大人な対応のミヨに比べて、子供のように床に寝転がり、イラつく様子をするケイタ。
僕はその子供を軽く無視して、改めてミヨと対面する。
「ミヨ、僕は一体?」
「ええ、ジンは死んでしまいました」
「死んだって僕はゾンビじゃないんだぞ?」
「いえ、人間は死ぬのは一回で終わりです」
「それよりも早く行こうぜ、兄ちゃん」
ケイタが木でできた古ぼけた看板を指さす。
そこには『チンチク
「ここはアリエヘン村か?」
「そうですよ、ジン。冒険の始まりです」
岬代の話によると、どうやら僕は死んでしまい、異世界に転生し、僕の親父に頼まれ、この世界の征服を企む魔王討伐の勇者になってしまったらしい。
頭の中で何かが引っかかったけど、気のせいだろう。
人間は一回死んだら終わりなのだから。
「よし、それじゃあ、いっちょ揉んでやるか」
「よく言うぜ。兄ちゃんレベル1なのにさ」
その言葉に『はっ』と気づいて腰に忍ばせていたものを振りかざす。
その棒は剣とはほど遠い、ぼろっちい
「確かに『スライス』の集団に攻撃されて瀕死でしたね。でもこうやって無事でしたよ」
「だよな。ミヨちゃんがすぐに
「ぼっ……」
「「ぼっ?」」
ミヨとケイタが、不思議そうに顔を見合わせる。
「ぼっ、僕は勇者なのに最弱なのかあぁー!?」
僕の痛烈な想いに、周りのみんなが爆笑する。
「まあ、頑張ろうぜ。先は長いんだからさ」
「男のお前に慈悲をかけられても、ちっとも嬉しくないんだよ」
「じゃあ、ミヨちゃんならいいのか?」
ケイタの嫉妬の感情は、どこからわいてくるのか。
異性に興味深さを抱く。
それが健全な男ってもんだろ?
「まあ、そんなことよりも、早くこの林を抜けないと夜になりますよ。さすがに二日続けて野宿は嫌でしょう?」
「ああ、寝ていたら、オラの耳を這いずり回っていたゲジゲジの存在。思い出しただけでも悪寒がするぜ……」
蒼白顔のケイタが、カタカタと骸骨のように歯を鳴らす。
寝込みを襲われ、さぞかし怖い敵だったんだな。
「兄ちゃん、さっさと行こうぜ」
「おう、任されたぜ。ケイタ先生」
「ジン、仮にも勇者でしょ?」
とりあえず行き先は、北にあるオオゲサ王国。
行く先が不明ということで、ここの地理に詳しい王様に会うことに決定した。
──僕たちは異世界というマップから行動を開始する。
この先に何が待ち受けていても、歩むしかないのだから……。