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第2話 対面

 私を誘拐した男は「遊佐ゆさ」というらしい。


 彼に促されるがまま、私は赤い絨毯が綺麗に敷かれた廊下の奥へと進む。すると、角を曲がったところに黒塗りの重厚な扉が現れた。遊佐は懐から小さな鍵を取り出し、錠前に差し込む。扉が開いた瞬間、ひんやりとした空気が流れてきた。


 そこは、先ほどまでの華やかな廊下とは別世界だった。突き当りまで続く窓はすべて厚いカーテンで覆われ、物音もしない。「化けて出そう」と瞬間的に思ってしまうほど、不気味な気配を肌で感じる。


 五十メートル近く歩いたところで、遊佐はしゃがみ込み、廊下の絨毯を勢いよくめくり上げた。露わになったのは、地下へと続く小さな扉。彼は再び懐から鍵を取り出し、ゆっくりと錠前を回す。


 ──カチリ。


「この中へ入ることができるのは、数人です」


 遊佐が静かに告げる。どうやら彼は、母から相当な信頼を得ているらしい。やはり、油断ならない。


「まさか、私の部屋が地下にある、なんて言わないよね?」


 私の皮肉を受け流すように、遊佐はにっこりと微笑むと、地下へ降りるよう手で促す。嫌な予感がよぎる中、扉の下に設置された梯子を降りると、目の前に重たそうな鉄の扉があった。


「ここが、御影安吾の部屋でございます」


 そう言うなり、遊佐はゆっくりと振り返ると、静かに頭を下げた。


「では、咲良様。よろしくお願いいたします」

「……何を?」

「先ほども申し上げましたが──」

「……まさか…早速、この部屋に入って子作りをしろってこと!?」

「ええ。本日から咲良様には、ここで寝泊まりしていただきます」


 当たり前のように頷く遊佐。私は思わず顔を引きつらせる。


「初対面でそんなこと…できるわけないでしょ!?人狼族なんて…私が桂木だって知られたら、殺されるに決まってる!あの女も一体どういうつもりで…」

「咲良様」


 遊佐の声が鋭く、私の言葉を遮る。


「それ以上は、口にしない方がよろしいかと」


 遊佐はちらりと天井を見やる。

 彼につられて視線を上げると、天井の隅に影が見えた。目を凝らすと、レンズらしきものが辛うじて確認できる。


 ──監視カメラ?


 見張られているのだろうか。

 とはいえ、黙っているわけにもいかない。私は声をひそめつつ、遊佐に怒りをぶつける。


「…勘弁してよ!せめて部屋は別にして!」


 数秒の沈黙の後、遊佐は僅かに頷き、微笑んだ。


「ご安心ください。御影安吾があなたに危害を加えることは、決してございません」

「どういう意味?」

「御影安吾は、十年もの間眠り続けているのです」

「十年も寝てるって…なんで?」

「理由はわかりかねますが、『眠りの森の美女症候群』という症例をご存知でしょうか?極めて稀な神経疾患のせいか、芙蓉様が行った実験の影響なのか…。とにかく眠り続けているのです。ですので、どうぞご安心を」


 私は呆然とする。母は元研究者。御影安吾を捕らえた後、彼に何かしたのだろうか。


「…食事はどうしてんの?十年も」

「御影安吾の体内には、芙蓉様が開発した『生態循環システム』が組み込まれております。外部の栄養を小量取り入れ、再構成、循環させるシステムです。とはいえ、エネルギーの再構成には限界があるので、三日に一度、点滴で栄養を注入しておりますが」


 私はさらに呆気に取られた。彼の血を奪い続けるために、母はそんなことをしていたのか。


「…っていうか、そもそも眠ってる相手とどう子作りしろっての?」

「工夫次第でどうにでもなりましょう。その辺りはお任せいたします」


 遊佐は淡々と答えると、静かに扉を開ける。


「お食事は毎日朝の七時と十二時、夜の七時に廊下の前へお出しします。私は三日に一回、御影安吾の診察および採血、点滴に伺いますので。何かございましたら、例の通信機でご連絡ください」


 遊佐はにこやかに頭を下げ、扉を閉じた。私は、しばらくその場を動けず、じっと扉を睨みつける。誘拐され、閉じ込められ、挙句の果てに子作りをしろだなんて──。


「……マジ最悪」


 そう吐き捨て、私はリビングに入るなり、リュックをボンッと床に投げる。そしてそのまま、明かりも点けずにソファーの脇にしゃがみ込んだ。


 頭を抱えたまま、ふと棚のガラスに目をやる。そこに映るのは、寝癖のついた髪に、漆黒の瞳をした私。肩まで伸びた焦げ茶色の髪はTシャツに僅かに触れている。


 私は、自分の目が昔から嫌いだった。どんなに目を背けても、冷ややかな視線で私を射抜いてくる母を、否応なく思い出させるから。私はため息をつき、髪をぐしゃぐしゃにかき乱しながら、心の中で叫ぶ。


 ──どうして、こんなことに。


 いきなり誘拐されて、監禁されるなんて、どんな悪い冗談だよ。

 タイミングが悪いことに、私は先日仕事を退職したばかり。一人暮らしで友達付き合いも大してない。私がいなくなったなんて、暫く誰も気付かないだろう。


 私は立ち上がり、苛立つ気持ちを抑えながら、壁際のスイッチに手を伸ばし、ぱちんと照明を点ける。


 視界に映るのは、玄関へ続く扉と、もうひとつ。

 重く閉ざされた、真っ黒な扉。

 ドアノブに手をかけると、「キィ」っという甲高い音が響く。


 扉の向こう──部屋の中央には、大きなベッドが据えられていた。

 そして、そこでひっそりと眠りにつく、ひとりの男。


 …この人が、御影安吾。


 見た目は三十代中ごろ。私が二十六だから十歳くらい年上か。

 思ったより若い。もっとおじさんかと思ってたのに。


 私はそろりとベッドに近づき、眠る男を覗き込む。

 しっかりと閉じられたまぶた。長いまつ毛に、スッと通った鼻筋。思ったよりも中世的な顔立ちだ。いや、そう見えるのは、肩まで伸びた銀髪のせいだろうか。リビングから差し込む柔らかな光を受けて、髪が微かに煌めいている。


 もう少しよく顔を見ようと、さらに数歩踏み出した時、ふいに違和感が襲った。


 クサイ。

 この部屋、めちゃくちゃクサイ。


 私はピタッと動きを止め、鼻をヒクつかせた。

 周囲を見渡しながらニオイの元を辿る。

 数秒後、答えがわかった。この御影安吾だ。


 考えてみたら、この男はずっと寝たきりで幽閉されていた。着替えも入浴も、ミレニアの連中がまともに世話をしてきたとは思えない。私は自分が誘拐された現実を受け入れきれないまま、胸から沸々と、別の怒りが込み上げるのを感じた。

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