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第3話 視線

 私はリビングに戻り、リュックからトランシーバー型の通信機を取り出す。これは遊佐との連絡用。スマホは遊佐に没収され、何かあった時はこの通信機から連絡をするように言われていたのだ。


 私は躊躇ためらいもなく発信ボタンを押し、遊佐の応答を待つ。


「もしもし」


 遊佐の声を聞いた途端、私は怒りをぶちまける。


「この部屋めちゃくちゃクサイんだけど!しっかり掃除してんの?特に御影安吾がクサイ。お風呂とかちゃんと入れてたわけ?」

「ええ、入れていましたよ。三ヶ月に一度ほどですが」


 ──少なっ!


 私は思わず心の中で叫ぶ。


清拭せいしきは?」

「はい?」

「体を拭いたり、足浴させたり、そういうケアはしてたの!?」

「いえ。特には」


 当たり前だろ、みたいな言い方しやがって。腹立つな、コイツ…。

 私は遊佐に聞こえるよう、大げさにため息をついた。


「あのねえ。こういう人を入浴させて清潔を保つのは、超最優先事項なの!ずっと寝てるからって雑な扱いして、ばっかじゃないの!『入浴は三ヶ月に一回』ってしれっと言ってたけど、そう言うあんたは三ヶ月に一回の入浴で耐えられるわけ?耐えれるもんなら耐えてみなさいよ、このあほんだら!」


 一気にまくし立てる私。通信機の向こうが、しん、っと静まり返る。


「ちょっと!聞いてんの?」

「え…ええ。失礼いたしました」

「わかったら、早くこの御影安吾を入浴させてあげて!それと寝具の洗濯と着替えもよろしく」

「いえ…それはできません」

「……は?」


 思わず間抜けな声が漏れる。

 今できないって言った?コイツ?


「私どもが伺うのは、緊急時や診察、採血、および点滴の際のみ。そう芙蓉様から厳命されております」


 私はうなだれた。

 …どれだけ言いなりなんだよ、この男は。


「…じゃあ、私が洗うからもういい!」

「お手数をおかけします」


 即答する遊佐の声に、さらにイライラが募る。

 追い打ちをかけるように、遊佐はこう続けた。


「着替えは、今咲良様が立っている目の前の棚、上から三番目の引き出しにございます。それと、寝室の奥に車いすもありますので、必要であればご利用ください」

「あっそ」


 私は短く言うと、一方的に通信を切り、テーブルの上に乱暴に置いた。

 仕方なく棚へと向かい、上から三番目の引き出しを開ける。中には浴衣のような簡単な着替えが折りたたまれていた。

 それを手に取り、寝室へと向き直ったその時、ふと疑念が浮かんだ。


 ──着替えは、今咲良様が立っている目の前の棚…

   上から三番目の引き出しに──


 私は通信機を手にして、部屋中を歩きながら話していた。

 確かにあのタイミングでは「目の前」に棚があったけど、それを遊佐がわかるはずがない。それを正確に言い当てるなんて…。


 まさかこの部屋…。


 恐る恐る部屋を見渡す。すると、本棚の隙間、暖房器具の影、壁際の微妙な凹みにキラリと光る小さなレンズがあった。遊佐は今、監視カメラで私を見ていたのだ。


 気色わる!


 私はすぐさま硬そうなものを探す。

 目についたのは、棚に置かれた金属製のオブジェ。それを手に取るなり、勢いよく振り上げてレンズに叩きつける。


 ガシャン!


 破片が床に散らばるのを見て、私は舌打ちをした。

 あいつのことだ。まだまだあるはず。


 私は床から天井を舐めるようにじっくりと観察し、一時間かけて部屋中に仕掛けられていた監視カメラをすべてぶち壊した。


 これでよし。


 私は寝室へと向かい、車いすを引きずり出した。安吾を座らせるためだ。


 私は元々、先月まで介護施設で働いていた。仕事では人を車いすに乗せる作業もあったのだが、二人以上でやっていたし、相手は高齢者。安吾は成人男性で筋肉も骨格もしっかりしている。女の私が持ち上げるには、きっと重すぎる。ここはしっかり、気合入れないと──。


 そう思いながら彼の手首と足首を見て、思わずギョッとした。


 ──枷だ。


 分厚い木製の枷が手足と足首に取り付けられ、鎖で重石に繋がれている。まるで囚人だ。なんとなく想像はしていたが、実際にこの目で見るとミレニアの非道さに胸がかき乱される。


 とはいえ、今はこの安吾を清潔にしなければ。私は彼の両脇に腕を回し、グッと力を込める。


「重いぃぃぃ~~~」


 悪戦苦闘の末、どうにか安吾を車いすに乗せ、洗面台へ向かった。


 彼の首をそっと倒すと、ちょうどいい高さに洗面台がフィット。これなら洗いやすい。私は蛇口をひねり、ぬるま湯をすくう。温度を確認した後、そっと安吾の髪にかけ、指先を滑らせた。


「これが終わったら、ちゃんと体も拭きますからね~」


 口をついて出た言葉に、ハッとした。つい、前職でのクセが出てしまった。ずっと染みついた習慣、そんなすぐには忘れないよな。

 照れくさくなった私は、思わずくすりと笑う。


 髪を洗った後、安吾の銀髪をドライヤーで丁寧に乾かす。シャンプーのほのかなシトラスの香りが、ドライヤーの温風に乗ってふわりと漂った。


 それから私は、布をぬるま湯に濡らして絞り、彼の顔と体を優しく拭き始める。


 本当は湯船に浸からせてあげたいけど、ひとりでは無理だ。

 とりあえず今日は清拭。入浴はまた、別の方法を考えてチャレンジしよう。


 清拭が終わった後は安吾の髭剃り。肌を切らないよう、ゆっくりと慎重に行う。


 最後は歯ブラシだ。私は車いすの背もたれを若干後ろに倒す。部屋には普通の歯ブラシしかなかったので、綿棒で代用。普通の歯ブラシだと口の中に唾液がたまるので、誤嚥性肺炎に繋がる。


 安吾用の口腔ケア用にスポンジブラシも持ってきてもらわなきゃ。

 そんなことを考えながら、湿らせた綿棒で、歯茎や舌、頬の内側を優しく拭っていく。


 一通り終わったところで、ようやく安吾と寝室に戻る。安吾のシーツと枕カバーはさっき洗濯機にぶち込んだ。今日は私のベッドに彼を寝かせよう。私はリビングのソファーで寝ればいいし。


 私は再び力を振り絞り、安吾の体を支えながらベッドへ寝かせる。慎重に事を済ませたところで、ドサッと体の力が抜け、その場に座り込んだ。


「ふーっ…」


 思わず息が漏れる。全身、汗だくだ。

 その時、リビングの通信機が鳴り始めた。遊佐だ。


「何?」


 苛立ちながら答える私。通信機のスピーカーから遊佐の声が部屋に盛大に響く。音を小さくしたいが、音量の調整方法がわからない。遊佐の声が部屋中に響くので、こちらの声も自然と大きくなる。


「監視カメラがすべて壊されたようですが」

「当たり前でしょ!あんな気色悪いもの。手あたり次第ぶち壊してやった」

「それは…困りましたね…これからどうしましょうか」


 私はハッとした。この男、懲りずにまだ監視するつもりか?


 そっちの思い通りになんてさせるもんか。

 私は通信機を握る手に、グッと力を込める。


「忘れたの?私も桂木。あんたよりずっと上の立場よ。最低限のプライバシーは認めてもらわないとね」


 すると、通信機の向こうから、微かな息遣いが聞こえた。ただの音で感情すべてを汲み取ることはできないけど、この感じ…今、この男は…。


 ──笑ってる?


「承知しました。明日の朝、御影安吾の新しい着替えを部屋の前に置いておきます」

「ちょっと待って!他にも必要なものがあるの。今から言うものを、明日の朝全部持って来て」


 私は安吾の介護に必要なものを片っ端から遊佐に伝える。一通り言い終えた後で、遊佐は「すべてご用意いたします」と告げ、通信を切った。


 すんなりこちらの要望を受け入れた遊佐にどこか引っかかるものを感じながら、通信機をテーブルに置く。


 ──その時だった。


 部屋の空気が、ピリッと鋭く裂けたのだ。

 背後から突き刺すような視線。

 鋭く、冷たく、まるで氷の刃で首をなぞるような──。


 私は、反射的にバッと振り返る。


 ……気のせいか?


 視線の先にあるのは、静まり返った寝室。

 そこには、穏やかに眠る御影安吾の姿があるだけだった。

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