それから数日後の昼間。私は寝室のベッド脇に腰掛けていた。隣には遊佐。今日は御影安吾の採血の日なのだ。
遊佐は鞄から注射器と点滴器具を取り出し、手際よくセッティングを始める。安吾の採血を手早く終わらせると、遊佐は点滴に取り掛かる。これが、安吾の三日分の食事だ。
点滴が終わると、遊佐は安吾の手を握り、ゆっくりとマッサージを始めた。その様子に私は目を丸くする。
遊佐はミレニアの忠実な
けれど、彼が安吾に触れる手は信じられないほど優しかった。ずっと適切なケアをしていなかったはずなのに、突然マッサージをするなんて──。
「……何か?」
いつも通りの穏やかな声。だが、その裏側には何かが隠れているようで、私は少し体を強張らせる。
「…別に。ちょっと意外だっただけ。てっきり、あんたは御影安吾を都合のいい人形くらいにしか思ってないのかと思ってた」
私の言葉に、遊佐は少しも動じずにこりと笑った。
「あなた様のお叱りを受けて、私も心を入れ替えたのですよ」
平然としれっとした口調で答える遊佐。
すると彼は、小さく咳払いをした後、こう口を開いた。
「何か変わったことは?」
「別に。何で?」
「監視カメラがすべて壊された今、私には貴方様の様子がわかりませんので」
私はへへんっと勝ち誇るように笑う。
「お陰様で、とっても快適です」
「そうでございましたか。それを聞いて安心しました」
私の皮肉にも、遊佐は微笑みを崩さず、何食わぬ顔でマッサージを続ける。そのまま、彼は安吾の体をゆっくり横向きにし、背中や腰を丁寧に観察し始めた。
「…あんた、看護師だったの?」
思わず、口を突いて出た。
「…なぜ?」
「採血、めちゃくちゃ慣れてたし。今も床ずれがないか見てるんでしょ」
ベッドに寝たきりでいれば、体の一部が圧迫されて血行が悪くなる。そして、酸素や栄養が届かなくなるのだ。だからこそ、数時間おきに体位を変えたり、皮膚の状態を確認することが大事なのだが、この男は今それを当たり前のようにやっていた。
「いえ。私は看護師ではなく、もともと自衛隊で医官をしておりました」
「医官?」
「自衛隊に所属する職業軍人の医師でございます。三年前にミレニアの考えに共感して入信し、半年前からこちらへ」
「へえ」
あっさりと認めた遊佐を私はじっと見つめた。そんな私の様子が不思議なのか、遊佐は僅かに目を見開く。
「まだ、何か?」
「あんた、御影安吾の採血を任されるなんて、随分信頼されてるんだね」
遊佐は一瞬、顔を伏せる。
「芙蓉様は大変用心深い方でございます。そのような方が私のような者を信頼してくださっているのであれば、これ以上の幸せはございません」
遊佐はそう告げると、鞄を持ってすっと立ち上がった。
「もし何かございましたら、すぐに通信機でご連絡ください」
「はーい」
私は気のない返事をしながら、ふと思い立つ。
「そう言えば、ひとつ頼みがあるんだけど」
「頼み?」
「毎日、暇で暇で死にそうなの。次に食事を持ってくる時、スケッチブックと絵の具も一緒に持ってきて」
「スケッチブックと…絵の具、でございますか?」
「何か文句あんの?」
「いえ、お絵描きがお好きとは、意外でした」
「あっそ。とにかくお願い。やってくれないなら、そっちの要望も一切飲まないから」
「承知しました」
遊佐は一瞬笑みを浮かべた後、深く頭を下げて去って行った。
扉が閉まった瞬間、私は大きく背伸びをしながら、ふわぁとひとつあくびをした。
ようやく出ていった。
ま、最初からミレニアの要望──子作りなんてするつもりないけどね。
また遊佐に生意気な口を聞いてしまった。
本当はうまく懐柔して、情報を引き出すなりした方が良いに決まってる。
でもダメだ。あいつの丁寧過ぎる物腰、「ミレニアの下僕」という感じがひしひしと感じられて生理的に受け付けない。とはいえ、こちらの要望を通せただけでも大きな前進だ。
私はリュックの中からスケッチブックを取り出し、パラパラとページをめくった。
草木に囲まれた小道を、一人の少年が駆けていく。これは「少年の旅」をテーマにした物語。私の絵本の下書きだ。
創作の時間を作るために、私は先月仕事を辞めた。
半年間…そう期限を決めて創作に集中しようと決めたのだ。
攫われたのはそんな矢先のこと。
でも、諦めない。
私はペンケースから鉛筆を取り出し、スケッチブックのページをそっと開いた。薄く、優しく、物語の続きを下書きしていく。
私の糧は、絵を描き続けること。
母──ミレニアなんかに、絶対に奪われてたまるか。