翌朝。遊佐は、約束通りスケッチブックと絵の具を朝食のワゴンの上に乗せてくれた。午前中からお昼にかけて安吾のケアをいつも通り行い、掃除や洗濯を済ませ、今は創作に取り掛かっていた。だが…。
…だめだ、今日は全然うまく下書きが進まない。
こういう時は、ひたすら「好き」を描くに限る。
私はスケッチブックを数枚破り、空白の紙に向かって鉛筆を走らせた。
草花や風、光、誰かの後ろ姿…思いつくままに描いていく。
一通り書き終えたところで、今後は自由に色を重ねていく。
母から逃げたあの日。
児童養護施設の前で一晩を過ごしたのは、小学校五年生の時。翌朝、私は保護され、それから施設で育った。
絵を描くことが好きだった私は、本音を言うと美大へ行きたかった。
でも、奨学金を借りても足りないし、生活も自分でどうにかしなければならないと思うと踏ん切りがつかなかった。
結局、私は高校を卒業してすぐに介護施設で働くことに決めた。
そんな中でも、絵を描くことはやめられず、空いた時間に描き続けて今に至るのだが──。
私はハッとした。気づけば、もう五枚も絵を描いていた。絵の具で濡れた絵を乾かすため、天井から紐をアーチのように垂らし、その紐に洗濯バサミで絵を吊るしていく。
その後、時計を見て小さく目を見開いた。夜の六時くらいかと思っていたが、八時を過ぎていたのだ。
あ!!晩御飯…!
早く食べないとワゴンごと食事を下げられる。
慌てて扉を開けると、いつも通りワゴンが置かれていた。私はホッと胸を撫で下ろし、ワゴンを引き寄せる。
その時だった。
影から音もなく、二人組の男が飛び出してきたのだ。
「…っ!?」
驚く間もなく一人が私の口を塞ぎ、力ずくで私を部屋の中へと押し込んだ。
「ようやく出てきたか、このアマ」
帽子を被った二人組は、金髪で顔は若い。二十代前半くらいだろうか。どうやら、この男たちは私が扉を開ける瞬間を待ち構えていたらしい。私は男の手を振り払い、鋭く睨む。
「何すんの!?」
すかさず、男の一人が私の口を抑え込む。
その様子を見ながら、もう一人の男が鼻で笑った。
「ばーか。口塞ぐ必要なんてねえよ。ここは地下。こいつの声なんか、聞こえねえからな」
それを聞いて、男は笑いながらあっさりと手を離す。
だが、私の両手はがっしりと掴まれたままだ。
「何なの!?あんたたち!」
「ミレニアの使徒ですよ、桂木さん。ほんの数分前までね」
こいつら…私の名前を知っている!?
「…数分前ってどういうこと?」
「逃げるんだよ。ここには、金づるを探しに来ただけだからな」
男はそう言うと、寝室の扉を乱暴に開ける。ベッドの上に目を凝らすと、小さく口笛を吹いた。
「…いた。情報通り、御影安吾だ」
二人は顔を見合わせ、にやりと笑い合う。
「彼をどうするの!?」
「こいつの血は高く売れる。そのくらい知ってんだろ?桂木さん」
「連れ出す気!?そんな簡単に…」
「俺たちはこいつの体じゃなくて、血に用があるんだよ」
男の一人がキャリーバッグを開け、中から容器と注射器を取り出す。
「こいつの血は一億もくだらねえからな。死ぬまで絞り取れ」
「了解」
一人が安吾の腕をつかみ、無造作に注射器を突き刺そうとする。私は無意識に寝室に向かって手を伸ばすが、もう一人の男が私に向き直り、片手で私の手をさらにグッと掴む。
懐から、鈍く光るナイフを取り出しながら。
「…あんたが黙っててくれる保証はないしな。今あんたが死ねば、半日は俺たちのこともバレずに済む」
男はにやりと笑うと、勢いよく私を突き飛ばし、馬乗りになった。
喉が詰まり、声が出ない。恐怖に全身が一気に強張る中、男が高々とナイフを振り上げた。
──殺される。
私は反射的に目をぎゅっと閉じた。すると、次の瞬間──。
「ぎゃああぁぁぁ!」
部屋中に空気を裂くような、耳の奥を貫くような、痛ましい声が響いた。
まるで、死の淵に追い詰められた者が最後に放つ、断末魔。
私はゆっくりと、声のした方──寝室へ視線を向ける。
暗闇の中で揺れるひとつの影。
影は音も立てず、静かにこちらへ歩み寄る。
リビングの灯りが、足元を、胸元を、そして顔を静かに照らし出した時、私は息を呑んだ。
眠り続けていたはずの、御影安吾。
美しい銀髪を揺らしながら佇むその男は、冷徹な眼差しでこちらを見据えていた。