目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報

第6話 咲良

 さっきまで私に馬乗りになり刃を振り上げていた男の顔は、今や恐怖一色に染まっていた。その視線の先に立つのは、両手足に枷をつけたままの御影安吾。彼の手にはしっかりと注射器が握られていた。鋭く光る針の先から、ぽたり、と赤い滴が床に落ちる。


 安吾は瞬時に注射器を奪い取り、その針で頸動脈けいどうみゃくを突き刺したのだ。一切の迷いなく。寝室のベッドに目を向けると、先ほどまで安吾の血を奪おうとしていた男が、首から大量の血を流し、力なく倒れていた。恐らく絶命しているのだろう。寝室の寝具も、見たことのないような量の血で染まっている。


 安吾は私に目もくれず、冷ややかな視線をもう一人の男に向ける。


「なんでお前が…!寝てたはずじゃ…意識がなかったんじゃ…ねえのかよォ!!」


 男は叫びながら、逃げるように入口へ駆け出した。命の危険を本能で悟ったのだろう。


 だが、安吾は瞬きひとつせずに男に追いつくと、注射器の針を男の頸動脈に突き刺した。次の瞬間、噴水のように血が床や壁に飛び散り、男は力なくその場に崩れ落ちた。


 私は恐怖のあまり、言葉を失くしていた。

 たった今、人が死んだ。目の前で二人も。


 ──まさか、御影安吾が、目を覚ましていたなんて。


 安吾はゆっくりと振り返り、私を見据える。その目の冷たさに、私はさらに恐怖する。彼の目に宿っていたのは、温かさとは程遠い敵意だったのだ。


 安吾はしゃがみ込んで私の顔を覗き込むと、短くこう言い放った。


「名を名乗れ」


 私は瞬きもできず、ただ大きく目を見開いて、彼を見上げた。


「貴様の苗字、『桂木』だな。下の名は?」


 安吾はゆっくりと、枷のついた血まみれの両手を掲げる。そして、ゆっくりと私の首を掴んだ。


「三ヶ月ほど前、桂木芙蓉の一人娘の名を一度耳にした。貴様がそれか?さあ、答えろ」


 この男、気付いている。私が「桂木」だと。

 私は顔を強張らせながら、声を振り絞った。


「…咲良」


 その瞬間、安吾の目がさらに鋭くなった。


「誤魔化すな」


 凍てつくような言葉に、私は肩をビクつかせる。


「二度同じことを言わせるな。私はお前の、を聞いているんだよ。もう一度誤魔化せば、即座に殺す」


 ──この男…知っている。誰にも知られたくない、私のを。私の…もうひとつのを。


 私はもう、半泣きだった。逃げ道はない。

 次の瞬間、首にかかる安吾の指の力が増した。喉が締め上げられ、途端に息苦しくなる。


 本当に殺される。


 私は恐怖のあまり目を閉じた。その時、電気が走るかのように、頭の中で過去の記憶が閃いた。昔、いじめられて泣いていた時、施設のちょっと口が悪い先生に言われた言葉だ。


 ──辛い時、苦しい時、他人は都合よくあんたを助けてくれないの。自分を守れるのは自分だけ。どうしようもなく追い詰められた時は、とにかく全力でブチ切れろ──


 その時、何かがせきを切った。


 私は歯を食いしばり、拳を握りしめ、渾身の力で安吾の顔面をぶん殴った。


 予想外だったのか、安吾は私の首から手を離す。私は立ち上がった。震える体を叩き起こすように、怒りを燃やして。涙でぐしゃぐしゃになりながら、大声で叫んだ。


「何が本当の名前だよ……どうせ『桂木藍子』って言うと思ったんでしょ!?」


 勢いのままに、私はまくしたてた。


「どいつもこいつもこの名前に執着しやがって!お察しの通り、私は元・桂木藍子よ!私の母、桂木芙蓉はね、一番憎んでいたって女の名前を、わざと私につけたの!そんでもって、憂さ晴らしするみたいに私を虐待した!聞けて満足かよ!!!」


 一瞬、私は安吾を見る。彼は無言で、ただじっと私を見つめていた。


「私はね、好きで桂木藍子に生まれてきたわけじゃないの。あの女から逃げて、施設で育って、やっとの思いで名前を変えた。今の私は咲良!施設の先生がつけてくれた名前が、私の本当の名前!私のこと、殺したいなら殺せば!?でもね、あんたがこれから殺すのは桂木藍子じゃない。桂木咲良だってこと、ぜってー忘れんじゃねえぞ、このクソ野郎!」


 怒りと悔しさが混ざって、涙が止まらない。

 でも、これでいい。

 あの女が押しつけた「桂木藍子」で終わるくらいなら、せめて最期は自分を偽らず、咲良として死んでやる。


 私は俯き、嗚咽おえつを漏らし続けた。

 そして、ゆっくりと顔を上げる。


 すると、そこには地面に座り込んだ安吾がいた。

 目を見開き、呆然と私を見つめている。

 まるで、私の言葉が想定外だったと言わんばかりに。


 何なんだよ、コイツ。

 あんなに冷酷な目をしてたくせに。

 私が桂木芙蓉の娘だと、確信してたんじゃないんかい。


 その時だった。


 気まずい沈黙を破るように、通信機が鳴り響いた。私は反射的に身をすくめる。すると、安吾が再び私を睨みつけ、短く命じた。


「出ろ」

「…は!?」

「出ないと怪しまれる。死ぬ気で誤魔化せ」


 私はゴクリと生唾を飲み、ゆっくり通信機に手を伸ばすと、通話ボタンを押した。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?