「咲良様、大丈夫でございますか?」
思いがけない遊佐の言葉。鼓動が一拍遅れて跳ね上がる。突然こんな連絡をしてくるということは、この部屋で起きたことがすでに知られているのだろうか。
私は唇を震わせながら安吾を見る。彼は無言のまま、私を睨みつけていた。トランシーバー型の通信機は音量調節ができず、音声がダダ漏れの状態。つまり、遊佐の声は安吾にも届いている。
「…何が?」
「先ほど、脱走者が確認されました。男二人です」
「それが?」
「…二人は地下の防犯カメラを破壊していたため、もしかしたらそちらに向かったのかと思いまして。食事はもう済まされましたか?ワゴンは問題なく、部屋の外に?」
私はハッとした。
そうだ。さっき、ワゴンを引き入れようとした時に襲われたのだ。当然、食事には手を付けていない。
とはいえ、そんなことを馬鹿正直に言えば、遊佐はここへ来る。そうなれば、死体も血痕もすべて──。
唇が震える。隣では安吾が鋭くこちらを見据えていた。まるで「口を滑らせれば殺す」と言わんばかりの目つきだ。
「ワゴンは部屋の外に置いた。誰もいなかったけど」
自分でも驚くほど、冷静に返答した。すると、遊佐は小さく息を吐き、静かに告げた。
「念のため今から地下へ向かいます。私が連絡するまで、扉は決して開けないように。二人組が潜んでいる可能性もございますので」
「あ、ねえ!」
思わず声が大きくなる。しまった、動揺してしまった。一拍の間を置いて、遊佐の落ち着いた声が響く。
「……何か?」
「…まさか、部屋にも来るつもり?」
私はなるべく自然な声色で尋ねる。地下に来るだけならともかく、部屋にまで立ち入られたら一巻の終わりだ。
どうか、部屋には来ませんように―──。
そう願ったのも束の間、嫌な予感が的中する。
「伺おうと思っておりました。男たちがワゴンに潜んで部屋に入り、隠れている可能性もゼロではありませんからね」
……最悪だ。ここまで用心深い男だったとは。
「…部屋に入られたくない理由でも?」
その声はどこか鋭かった。
私はもう一度、息を大きく吸う。こうなったら、もうヤケだ。
「来ないで。私、今…裸なの」
次の瞬間、沈黙が落ちた。
「お風呂に入りながら洗濯してたんだけど、間違えて着替えも洗っちゃったの。今、バスタオルを体に巻いてるだけだから…絶対に来ないで」
「…もう夜の九時近くですが…洗濯、でございますか」
いつになく質問が多いな。怪しんでいるのだろうか。
私は間を開けず、食い気味に言葉を返す。
「いつ洗濯しようと勝手でしょ。ここは地下なんだし。それに、ワゴンをチェックする必要もないと思うけど。前に監視カメラを部屋につけられていた時から気持ち悪くて、そっちが持ってくる食事やら服は、全部入念にチェックしてるの。もちろん、ワゴンもね。言っておくけど、ワゴンの中に男なんていなかった」
今度は、先ほどより長い沈黙が落ちる。私の額には冷や汗が滲み、心臓が嫌な音を立て続ける。
「咲良様」
「…何?」
「御影安吾の様子は?」
一瞬、息が止まる。この質問が、核心を突いている気がした。
私は通信機を握る手に力を込めて、そっけなく告げる。
「いつも通りだけど。何?突然」
「そうですか。それを聞いて、安心いたしました。御影安吾も、咲良様も無事ならそれで良いのです。後ほど、ワゴンだけ下げにまいります」
通信が、ぷつりと切れた。私は通信機を床にゴロンと落とし、そのままぐったりと床に転がる。
…なんとか、誤魔化せた…?
私は体を起こし、安吾に向き直る。すると、彼は腕を組み、じっと考え込んでいた。
この男はさっき、「三ヶ月前に桂木芙蓉の娘の名を聞いた」と言っていた。ということは、私がこの部屋に連れて来られた時にはすでに意識があったということになる。
ずっと、眠ったフリをしながら、逃げる機会を
そして今日、侵入者たちに殺されそうになったから、やむを得ず起きたのだろうか?
そんなことを考えていると、不意に声が飛んできた。
「さっきの男。名は?」
「は?」
「通信機で話していた男だ。何者だ」
「何者って…遊佐でしょ。昨日あんたの採血してた医者。ちなみに、私を
「攫った、だと?」
「突然攫われて、ここに連れて来られたの!あんたと子作りしろって意味わかんないこと言われて」
すると、安吾は納得したように頷く。
「…そうか。あいつは遊佐、というのか。名前までは知らなかった」
淡々とした声。けれど、先ほどの冷たい殺気は、いつの間にか消えていた。
私はそっと視線を入口へ向ける。扉の前には、手付かずのワゴンがぽつんと置かれていた。
そうだ。食事を片付けて外に出しておかないと。
足に力を入れ、立ち上がろうとする。だがその時、視界の端で横たわった男の死体と目が合ったような気がして、一気に腰が抜けて座り込む。
安吾はゆっくりとワゴンに目をやり、食事の皿に軽く目を通す。
「食欲は?」
「あるわけないでしょ」
吐き捨てるように答える私。
すると、安吾が静かにこちらへ歩み寄り、しゃがみ込む。
「食欲がないなら、今夜の食事は我慢してもらう」
私は鼻先で笑った。
言われなくても、喉を通らないっての。
「もしかしたら、明日も食事が喉を通らないかもな」
──どういう意味?
きょとんとした私をよそに、安吾はすっと立ち上がる。
次の瞬間、彼の背中から風が──いや、圧が生まれた。
部屋中の空気が一気に重く、鋭くなる。
灰色の気配が彼の体を覆い、銀の髪が逆立つ。
言葉にできない負の感情が、
眼球が、歯が、臓器が、次々と剥き出しになったかと思うと、そのすべてが今度は砂のように崩れていく。
床にこびりついた血の染みも、壁の血飛沫も、食事もすべてが砂と化し、ふわりと宙に舞って、消えていった。
そういえば──誰かが言っていた。
人狼族には、「人狼化」という特異な能力があるのだと。
気配だけで、人をも溶かす。
圧倒的な「力」を目の当たりにして、気がつくと、私の目からは大粒の涙が溢れていた。恐怖で体が震え、胸の奥が軋む。
その時、負の気配がふっと消え、安吾がゆっくりと、こちらへ向き直る。
──やめて。来ないで。
そう願う私をよそに、安吾はしゃがみ込み、涙を流す私に低い声で静かに告げた。
「手荒な真似をした。どうしても…確実にお前の本名を知る必要があった。今更説得力がないが、お前を傷付けるつもりは…ない」
その声には、先ほどまでの冷徹な威圧感はなかった。
だが、私は震えが止まらず、安吾の言葉に頷くこともできない。彼はゆっくり視線を落とすと、もう一度だけ言葉を紡いだ。
「……お前から見たら、さぞ私は、化け物に見えるのだろうな」
それだけ言うと、安吾は静かに立ち上がり、寝室へと戻っていった。
一方の私は、その場に崩れるように座り込み、ひたすら泣き続けた。
数分後、ふと視線を上げると、天井から吊るした洗濯バサミの先に、私が描いた絵が揺れていた。心行くまで筆を走らせ、色彩を重ねながら描いた絵は、滲むような赤い血で染まっていた。