それからの二日間、私はソファーの上で寝たり起きたりを繰り返していた。立ち上がる気力も湧かず、ワゴンで届けられる食事にも手をつけられなかった。
食事を残したことが気になったのか、遊佐が度々連絡をしてきたけど、「風邪」と短く伝えた。目を閉じれば、二日前の光景が、否が応でも蘇ってくる。
血まみれの男たち。
剥き出しになった眼球。
そして、砂のように消え失せた惨状──。
寝室の扉は、あの夜からずっと閉ざされたまま。
安吾はきっと起きている。けれど、その姿を見せることはなかった。
私はソファーに沈みながら、時計に視線を向ける。針は朝の七時を指していた。
──ぐるるる……
空間に小さく響くお腹の音。
……流石にお腹が減った。
私はよろよろと立ち上がり、扉を開けた。
廊下に置かれていたワゴンに乗せられていたのは、サンドイッチとコーンスープ。手を伸ばしてそれを引き寄せ、ソファーに腰掛けると、サンドイッチをひと口頬張る。
口の中いっぱいに広がる、卵の優しい甘み。
……おいしい。
たったこれだけで「生きている」と心の底から思えるのは、二日前に人の死を間近で見たからだろうか。
私はふと寝室の扉を見る。
今日は採血の日。午後にまた遊佐が彼の点滴──三日分の食事を体に与える。安吾は十年もまともな食事を食べていないはず。寝たきりなら点滴でもやむを得ないけれど、起きているなら少しでも口から食べた方がいいはずだ。
とはいえ、十年も食事を摂っていない人にいきなり固形物は難易度が高いな。そんなことを思いながら私は目の前のコーンスープに視線を落とす。
スープなら、安吾も飲めるかも。
私はそっとカップをお盆に乗せ、寝室の扉へと歩み寄る。
安吾は、寝室のベッドの上で座禅を組んでいた。浴衣のような
「…なんだ?」
「…あんたずっとまともな食事食べてないんでしょ?スープなら飲めるかなと思ったんだけど、飲まない?」
「必要ない。例の点滴のせいだろう。まったく腹が空かないんだ」
「でもさ、それでもちゃんと口から食べた方がいいって。ちょっとだけでも、身体が元気になるからさ」
安吾はゆっくりと目を開けると、真っ直ぐに私を見据えた。
あの夜、冷たい指先で喉を締め上げてきた男とは思えない。その眼差しには、ただ静けさだけが残る。
「私が恐ろしいのではないのか?」
「あんたこそ、桂木芙蓉の娘の私が憎いんじゃないの?」
私たちの間に沈黙が落ちる。一体何を考えているのか。この人からすれば、私は故郷を奪った仇の娘のはずなのに。
すると、安吾は言葉を選ぶように、こう告げた。
「恨みを…娘のお前に向けるのは筋違いだ。ミレニアに心酔しているならともかく、お前は抗って名を変えた。手にかける理由が、ない」
私は思わず目を丸くした。
同時に、心の奥からじわりと湧き上がる安堵に戸惑いを覚える。そういえば、二日前の夜もこう言っていたっけ。
──お前を傷付けるつもりは…ない。
この人は、目つきも悪いし変な気配を出すけど、思ったほど悪い人じゃないのかも。なんだかんだ、侵入者に殺されかけた私を助けてくれたし。
「スープさ、頑張って少しだけ飲んでみない?」
私はゆっくりと彼に歩み寄り、コーンスープを差し出した。
だが、安吾は眉をひそめる。警戒しているのだろうか。
「何?毒なんて入ってないってば」
私はお盆に乗ったスプーンを手に取り、スープをすくってひと口飲んで見せる。これなら毒が入っていないことが伝わるはずだ。
安吾は小さく息をつくと、カップに手を伸ばし、口につけようとする。だが、枷のせいでカップが持てても口元までは届かない。
安吾が顔をしかめるのと同時に、私は手を伸ばし、カップを支えた。
「いいよ。私が飲ませてあげるから、口開けて」
私は口をつけたスプーンを軽くティッシュで拭いた後、再びスプーンでスープをすくい、安吾の口に近づける。すると、安吾は僅かに目を見開き、目を泳がせた。
「何?」
「いや…流石にこっぱずかしい」
ぽつりと呟くその声に、私はふっと笑いがこぼれる。そんな私を見て、安吾はほんの少し、目を見開いた。
「ごめん、ごめん。あんた、結構人間くさいとこあるんだね。気にすることないよ。私慣れてるし。はい、さっさと口開ける」
私は再び、安吾に口を開けるよう促す。安吾は戸惑いながらも、観念したようにスープを口に含んだ。そしてしっかりと、それを飲み込む。喉仏が小さく上下するのを見届けてから、私は問いかける。
「…どう?」
安吾は気まずそうに目を逸らしながら、頷いた。
良かった。味もちゃんと感じてくれているみたい。私は再び、スープをすくって安吾に差し出す。
「もう一度。一口ずつ、ゆっくりね」
その後、安吾は時間をかけて五口分のスープを飲むことができた。これなら少しずつ、食事にも慣れていけそうだ。
「…看護師か?お前は」
「ううん。私は介護士。元だけどね。こういうのは私の専門なの」
「だから、色々世話を焼いてくれたのか」
「まさか寝たフリをしていたとは思わなかったけどね」
呆れたように言い放つ私に、安吾は小さく笑った。
「いつから起きてたの?」
「半年前」
「どうして寝たフリを?」
「監視カメラが仕掛けられていたからな」
私はハッとした。そうだ。この部屋──リビングや寝室には、初め監視カメラがあったっけ。それを私が粉々に壊したんだった。
「お前が壊したことは知っていたが、全部壊したか確信がなかった」
「へええ。それでよく、あの時起きようと思ったね」
すると、安吾の表情が僅かに険しくなる。
「あのままでは私もお前も殺されていた。一か八かだったが、あの後誰も部屋に来ないということは、監視カメラは確かにすべて壊れているようだ。やはり、あの言葉は本当だったんだな」
「あの言葉?」
問いかける私に、安吾は確信めいた口調でこう告げた。
「遊佐だよ。奴はお前に『監視カメラはすべて壊れた』と繰り返し伝えていた。私にも聞こえるように。まるで『だから安心しろ』とでも言いたげにな」