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第10話 断片

 私は衝撃を受けた。彼は終始冷静で現状を把握していると思っていたが、自らの名前と出自、そして、私の母・桂木芙蓉が故郷を襲わせた事実以外、すべて忘れていたのだ。


「…本当に思い出せないの?」

「ああ。家族も、同胞の顔や名前も。思い出そうとすると、猛烈に頭が痛くなる」


 先ほどまでの冷静な表情が、僅かに揺れる。

 それを見て、私は胸の奥を強く掴まれたような感覚になった。


 ミレニアに捕われていた十年。


 母は彼の故郷だけではない。十年分の人生と、記憶まで奪った。

 私はこの人にどんな言葉をかけたらいいのだろうか。どう償えば──。


「気にするな」


 小さな声に、私はハッとした。

 心に渦巻く負の感情を見透かしたような優しい響き。顔を上げると、安吾は柔らかく微笑んでいた。


「お前が悪いわけじゃない」


 私はキュッと唇を噛んで、震える拳を強く握りしめる。

 そして、彼を真っすぐに見つめ返した。


「力になるよ、私。遊佐に監視カメラとか盗聴器が仕掛けられてるなら、あんたが話しかけるわけにいかないでしょ?私なら遊佐と話せる。伝書バトっぽく、それとなく聞いてみるよ」


 安吾はほんの少し眉を寄せ、申し訳なさそうに目を細める。


「だが、こちらの狙いに気付かれるようなことがあれば、お前も──」

「気にしないで。私がこんなこと言う資格ないけどさ、一緒に記憶、取り戻そう」


 その瞬間、安吾の表情がふわりと溶けた。今まで見た中で一番穏やかで、優しい微笑み。それを見て、私の胸の奥はほんのり温かさを増していった。


* * *


 それから数時間後の昼下がり。「コン、コン」と扉を叩く音が響く。遊佐が安吾の採血と点滴に来たのだ。私はいつも通り彼を部屋へ招き入れる。遊佐は寝室に入るなり、手慣れた手つきで鞄から注射器と点滴のセットを取り出した。


「…何か、変わったことは?」

「別に」


 素っ気なく答える私。だが、遊佐は一切表情を変えず、手際よく淡々と処置を終えた。そしてその後、ゆっくりと安吾の手を取り、マッサージを始める。


 私は無意識に目を細め、遊佐の手元を見つめた。

 このマッサージがモールス信号とは驚いたが、よく見ると確かに遊佐は短い圧迫と長い圧迫を繰り返していた。


 次の瞬間、突然遊佐の手がピタリと止まる。彼の目は微かに見開かれていた。


「どうかした?」

「い、いえ。なんでもございません」


 この動揺ぶり。どうやら、安吾は今、遊佐に何かをしたらしい。そうだとすると、遊佐はきっとこれで完全に安吾が起きていると確信しただろう。私は意を決して、声を上げる。


「ねえ。ずっと気になってたことがあるんだけど」

「…何か?」

「私、この御影安吾のこと何も知らないの。この人が人狼族で本家の末裔ってこと以外、他に何か知ってること、ないわけ?」

「…なぜ?」

「は?」

「なぜ知りたいのです?」


 遊佐の声は相変わらず丁寧だが、その問いには鋭さが滲んでいた。

 面倒くさいな、コイツ。聞かれたことにただ答えてくれればいいのに。あくまでもミレニア側の立場を演じてる、ということなのか?それとも、こちらの意図を測ろうとしているのだろうか。


「だって気になるじゃん。私、この人と子作りしろって言われてるんだし。どんな人か単純に知りたいの。変?」


 数秒の沈黙。時計の秒針の音が静かに響く中、遊佐は小さく息を吐き、そっと言葉を続けた。


「御影安吾は、人狼族の中でもとりわけ優秀な人物だったと聞いております」

「へえ」

「文武両道。相当な切れ者で、本家の跡取りとして申し分のない人物だった、とか」

「凄いね」


 私は本心から感嘆の声を上げた。安吾はそんなに凄い人だったのか。


「だからこそ、捕らえるのは一苦労だったと聞きました」

「ってか、そんな強い人、よく捕まえられたね」

「銃撃でございます」

「銃?」


 その言葉に、私は眉をひそめた。

 私は二日前、安吾から発せられたおぞましい気配を身を持って味わった。あれほどの気配を持った男が銃にやられることなどあるのだろうか。

 そんな私の疑問に答えるように遊佐が言葉を続ける。


「不意を突いて、背後から銃で撃ったのです。元々人狼族は視野も聴覚も鋭く、気配にも敏感。しかし、ひとつだけ決定的な弱点がございます」

「…弱点?」

「完全な真後ろ──感覚が優れた人狼族でも、ほんの一瞬反応が遅れてしまうのです。ミレニアは襲撃の際、御影安吾の屋敷を最優先で包囲しました。最初から彼に狙いを定め、真後ろから銃で撃ったのです。それが致命傷だったようで…その後屋敷には火が放たれ、彼の家族はそのまま。逃げ道は、なかったようです」


 遊佐は振り返りもせず、淡々と告げた。私は一瞬遊佐の背中を見た後、安吾に視線を落とす。今の彼には、この声が届いている。家族の最期を、こんな形で聞かせることになるなんて。


 そんな中でも決して微動だにせずに瞳を閉じる彼を見て、胸が強く締めつけられた。母は…ミレニアは、なんて残酷なことをしたのだろう。


「それで、彼のことも捕まえたんだ?」


 私の問いに、遊佐は黙り込んだ。

 一瞬の躊躇。そして、かすれるような声が響く。


「…いえ、御影安吾は深手を負いながらも、一度その場から逃げております」

「逃げた…?」

「ええ。確か、森の方へ」

「なんで?」

「はい?」


 自分でも驚くほど、食い気味に聞いた。なんとなく『安吾が逃げた』という事実が腑に落ちなかったのだ。家族がいる屋敷に火が放たれたなら、きっと怒りに任せて敵を討つはずだ。


 それなのに、なぜ森へ?


 ──まさか。


「ねえ、森に逃げた時、安吾は一人だったの?」


 この問いに、遊佐の肩が僅かに揺れた。

 私は確信した。安吾が森へ逃げたのは、『逃がしたい誰か』がいたからだ。


「どうなの?」


 少しの沈黙の後、遊佐は静かに答えた。


「…一緒に、逃げていた者がいたようです。御影の分家にあたる人物で、年の離れた従弟だと以前聞いたことがあります」


 ──従弟。


 安吾が逃がしたかった人物は従弟。

 今、彼は生きているのだろうか。

 私は小さな希望にすがるように、拳をぎゅっと握りしめて尋ねた。


「まさか…その人まで殺した、なんて言うんじゃないでしょうね」


 言い終わるなり、目を閉じる。


 ──お願い。どうか違ってて。


 すると、遊佐は小さく息を吐き、ゆっくりと振り返って私を見据えた。


「それができれば、どんなに良かったでしょう。その者は瀕死の重傷を負ったものの、生き延びて、今、我々に牙をむいております」

「牙…?」


 言葉の意味を掴むよりも早く、決定的なひと言が落ちた。


「その者は『御影稜馬』──今は『焔』と名を変えて、SPTの幹部としてミレニア討伐部隊に所属しております」


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