──SPT
私はその名を聞いたことがあった。確かミレニアの最大の脅威、だったはず。そのSPTに今、彼の従弟が所属しているなんて。
その時、遊佐が鞄を手に取り、静かに立ち上がった。
「…何かございましたら、通信機でご連絡くださいませ」
遊佐は微笑みながら一礼すると、静かに扉を閉めて去っていった。
その背中を見送った数秒後、寝室へと駆け戻ると、安吾はすでに体を起こしていた。
彼の視線が私に向けられる。その瞳は僅かに潤んでいて、それを見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。安吾の家族は亡くなった。その現実を、今彼は目の当たりにしたのだ。そう思うと、かける言葉が見つからなくて、私は何も言えずに押し黙る。
「ありがとう、咲良」
不意に、安吾はそう告げた。恐る恐る彼を見ると、寂しげではあるが微笑んでいた。記憶がない今、家族が亡くなったことを心で受け止めてきれていないのかもしれない。それでも、従弟は生きている。この事実はきっと、彼の心に小さな火を灯したはずだ。
すると、安吾は自らの手をじっと見つめ始めた。そういえば、さっき遊佐が安吾の手をマッサージしていた。もしかして──。
「…遊佐、また何か伝えてきたの?」
「ああ」
安吾は
「だが、まるで意味がわからない」
「…遊佐はなんて?」
「『ジバエネルギー』と」
「…ジバ?磁場かな?」
一体それが、彼の記憶とどう繋がるのか。
あるいはミレニアの計画に関することなのか──。
「ねえ、『本が読みたい』って伝えてみない?」
「本?」
「そう。暇だからおすすめの本持って来てって頼むの。そうしたら、磁場エネルギーに関する本を持って来てくれるかも」
安吾は少し黙った後、口元を緩めた。
「…先ほど、遊佐の手を軽く握り返した。あいつは確実に、私が起きていると確信したはずだ。何か伝えたいことがあるなら、この機を逃さないだろう」
私は小さく笑みをこぼした。安吾のために何かできた気がして、心の奥がふっとあたたかくなる。
だがその瞬間、彼はゆっくりと視線を落とした。
「どうしたの?」
「いや…SPTか、と思ってな」
「さっき遊佐が言ってた『御影稜馬』ね。SPTの幹部だって!すごいじゃん。きっと、安吾を助けるために入隊したんだよ」
だが、安吾の表情は険しいままだった。まるで、私の言葉を静かに否定するかのように。
「SPTはミレニアの討伐部隊。そうだな?」
「え?うん」
「私は今、そのミレニアの生命線だ」
私はぎくりとする。
彼の言葉の意味が、すぐに理解できた。
「…SPTにとって、私は『狙うべき心臓部』。さらに、遊佐は言っていたな。私の従弟、御影稜馬は今『焔』と名を変えている、と」
「…それが?」
「本当に助けようと思っているなら、『御影』の名を捨てないだろう。だが、従弟は敢えて名を捨てた。自分の素性を隠してでも、討伐部隊の幹部として前に進む道を選んだということは、ミレニアとともに、私を葬り去る──つもりかもしれんな」
そう言うと、安吾は静かに微笑んだ。その瞳はなぜか穏やかで、不思議なほど安らいでいた。
「…そんなこと、わかんないじゃん。何笑ってんの?あんた」
思わず声を上げた。
安吾の笑みが、まるで「そうであって欲しい」と願っているように見えたからだ。
「今や私は不幸の元凶。このままミレニアに飼い殺しにされるより、稜馬に殺された方が余程幸せだ。人狼族は負の遺産そのもの。確証はないが、恐らく記憶を失う前の私も、今の私と同じようなことを思っていたような気がする」
その瞬間、私の中で何かがぷつんと切れた。
俯いたまま、私は肩を小さく震わせる。
何言ってんの?コイツ。
私は顔を上げ、安吾をキッと睨みつける。
自分でも驚くほど胸の奥から怒りが湧き上がり、両目が熱を帯びるように熱くなっていた。
「不幸の元凶?どの辺が?」
私の言葉は、自分が思うよりも部屋に大きく響いた。
「どこがどう元凶なの?具体的に言ってみなさいよ」
「私の血は、ミレニアの使徒に与えられ、洗脳の道具にさせられているのだろう?それが、元凶──」
「違うよ」
私はすかさず遮った。
安吾の言葉があまりにも悲しくて、私は語尾を強める。
「あんたの血は、
安吾が目を細め、一瞬眉をひそめる。
きっと、この病名を初めて聞くのだろう。
「灰核症は、骨髄の再生機能が異常をきたして、血液が生成されなくなる難病。普通の人間の血じゃ再生できない細胞を、人狼族の血の細胞なら活性化させられるの。天泣病は、涙腺から出血して視神経が壊れていく難病。これも、人狼族の血に含まれる細胞が、進行を食い止めてくれる」
私は息を整える。感情が先走りになりそうになるのを、必死で押さえながら続けた。
「どっちも五万人に一人が発症する難病だよ。少ないと思ったかもしれないけど、その人たちにとっては、あんたの血が『生きる希望』なの。私の児童養護施設の先生も、この難病に苦しんでたけどすっかり治ったんだから」
私はそっと手を伸ばし、安吾の手に触れる。その手はとても冷たかった。まるで、長い冬をたったひとりで過ごしてきたような、そんな冷たさ。私は思わず、ぎゅっと指先に力を込める。
「自分のこと、不幸の元凶って決めつけるの良くないよ。あんたの血は、私なんかよりずっと役に立ってるんだから。悪いのはそれを悪用する連中でしょ。研究者の中には、人狼族の血の研究を通して、難病の治療に役立ててる人もいるんだから!あんたは絶対生きてここから出るの。そんでもって、十年分を取り返すくらい幸せにならなきゃ」
安吾はじっと私の言葉に聞き入っていた。
数秒後、我に返った私は急に恥ずかしくなり、目を泳がせる。そんな私を見て、安吾は小さく笑った。
「優しいな、咲良は」
安吾の言葉に恥ずかしくなった私は、慌てて大げさに両手を振る。
「そんなことないよ。私、昔は桂木芙蓉の娘である自分が本当に嫌いでさ。グレたことがあるの。でも…施設の先生が、卑屈になってた私を叱ってくれて…抱きしめてくれてね。だからなんか…あんたの話聞いて、つい口挟んじゃった」
安吾は何も言わなかった。だが、目だけは真っ直ぐに私を見つめていた。きっと彼なりに、私の言葉を受け止めてくれているのだろう。
「御影稜馬がSPTに入った理由、私はあんたを助けるためだと思うよ。本当のところはわからないけどさ、そう信じたいなって思う。もし仮に御影稜馬がミレニアに攻め込んであんたを殺そうとしたら──」
ふっと息を吸い、私は言葉に力を込める。
「私ぶん殴っちゃうかも。そいつのこと」
その瞬間、安吾は一層大きく目を見開いた。いや、目だけじゃない。口も半開きだ。どうやら、私の発言が相当予想外だったらしい。が、ここまで来たら止まれない。私は感情の赴くままに、言葉を続けることに決めた。流石に引かれるかもしれないけど、構うもんかい。
「従弟だか兄弟だか知らないけど、安吾の気持ちも確かめずに殺そうとするなんてムカつくもん。本当にそんなことになったら、私はそいつを許さない。あんたが止めても、ボッコボコにしてやるから」
すると、安吾がプッと吹き出した。
静かな笑いが起きたかと思った途端、堪えきれないように、笑い声がどんどん大きくなる。
「な、何?笑うとこじゃないんだけど」
私は思わず突っ込むが、安吾は肩を揺らして、暫く笑い続けていた。こんなに無防備に笑う姿がなんだか意外で、私はついきょとんとしてしまう。ようやく笑いが収まった時、彼の目尻にはほんのり涙が滲んでいた。
「失礼。お前なら、やりかねないと思って」
「そんな変なこと言った?」
安吾はふっと息を吐き、小さく首を横に振る。
「…いや。想像だが、きっと稜馬はずっとひとりで孤独に生きていたと思う。稜馬にも、お前みたいに叱ってくれる誰かが傍にいればと思ってな」
途端に胸がじんわりと熱くなり、頬が火照る。
気付くと私は、安吾の手をさっきよりもさらに強く握っていた。
「…きっといるよ。人は必要な時に、必要な人や言葉と出会うものだから」
その瞬間、安吾の目がゆっくりとこちらに向いた。静かな眼差し。けれど、そこには確かに、温かな光が灯ったような気がした。視線の奥からほのかな熱を感じて、私は一瞬目を逸らしてしまった。だが、すぐに彼を見つめ返し、小さく微笑んだ。