私は頬を赤らめ、少し考えてから口を開いた。
母から逃げて、児童養護施設に駆け込んだこと。
桂木藍子から桂木咲良に名前を変えたこと。
高校を卒業した後、介護施設で働いたこと。
いつか絵本作家になりたいこと──。
「絵本?」
「うん。昔からね、絵を描くのが好きでさ。実は絵本描いてるの。これで稼いでるわけじゃないけどね。時間を見つけて、今でも絵本の下書きとか、日常の光景をスケッチしてるんだ。とにかく毎日描かないと線の描き方が変わっちゃうから」
「もしかして、毎晩遅くまで起きてるのはそれか?」
私は頷く。
そう。ここに連れてこられてからも、下書きや色塗りは欠かすことはなかった。とはいえ、日中は安吾と調べ物をしているので、夜中にちょこっとだけだけど。
「見たい」
突然、安吾の真っ直ぐな言葉が部屋に響いた。
一瞬思考が止まる私。次の瞬間、息を吐くのと同時に慌てて首を振る。
「だ…ダメダメ!絶対だめ!」
「なぜ?」
「そんな大した絵じゃないし」
「…そう言われると、余計見たくなる」
安吾は手足に枷を付けたまま、すっと立ち上がり、歩きながらキョロキョロと部屋を見渡す。私の荷物を探しているのだろう。
「ちょ…ちょっと!」
慌てて彼の背中を追いかける私。だが、ソファー横に置いていたリュックの中に、雑に入れていたスケッチブックはあっさりと見つかってしまった。安吾はちらりと私を見やり、小さく笑う。
「ほんとにダメだって!!」
私は思わず声を上げる。だが、安吾は全く動じず、楽しそうにスケッチブックをパラパラと無造作にめくっていく。そして数ページめくったところで、ふと手を止めた。
その一瞬を逃さず、私は勢いよく安吾からスケッチブックを奪い返す。そして彼に背を向けて、胸元でぎゅっと抱えた。
「…勝手に描いて、ごめん」
彼が開いたページに描いていたのは、安吾のスケッチだった。
絵本の下書きを描いていた最中、ふと見た安吾の寝顔がとても綺麗で、つい鉛筆を走らせてしまったのだ。
とはいえ、勝手に顔をスケッチしていたなんて、気味が悪いと思われるに決まってる。恥ずかしさと後悔で頭がいっぱいになる中、もう一度謝ろうと振り返ったその時──。
私は言葉を失った。安吾が、頬を僅かに赤らめていたからだ。
「嬉しい」
その一言があまりにも意外で、息が止まった。
時計の秒針、換気扇、小さな冷蔵庫の僅かな振動…。部屋中に無機質な音が淡々と響く中、私の心臓だけが感情的に高鳴っていた。
「もう一度、初めから見たい。だめか?」
私はドキドキを悟られないように少し俯きながら、そっとスケッチブックを差し出した。安吾は受け取ると、静かにソファーへと腰を下ろす。そして、ゆっくりスケッチブックを開いた。私は呼吸を整え、彼の隣にちょこんと座る。
「…初めのページは絵本の下書きなの。色を乗せているページもあるけど、鉛筆だけのも多くて見にくいかも。少年が旅をする話なんだけどね」
安吾は小さく頷き絵に視線を落とすと、指先で丁寧にページの紙をなぞる。その仕草があまりにも優しくて、自然と頬が緩んだ。私は彼がスケッチブックをめくるタイミングに合わせて、絵本の物語を口にする。
主人公は、世界の果てで生まれた少年。彼にはなぜか「名前」がなかった。少年はそれを恥じ、自分が何者かを知るために旅に出る。道中で出会ったのは、空を飛べない鳥、目を失った画家、家を失くした少女…欠けたものを抱えながら、懸命に生きる人たちだった。少年はたくさんの出会いを経て、嫌いだった自分を少しずつ受け入れていく。そして旅の果てで、少年はついに探していた「名前」を手に入れる──。
最後のページに安吾の指がかかった時、私は小さく呟いた。
「私、元々桂木藍子だったけど、名前変えたじゃん?その時、新しい人生が始まるような気がして…それがずっと心に残ってて、この話思いついたの」
私の話に、安吾は静かに耳を傾けていた。まるで、この拙い物語を心の引き出しに、そっと仕舞うように。
「この少年が見つけた名前は?」
「それは秘密。描いてからのお楽しみ」
「ヒントだけ」
安吾が、いたずらっ子のように顔を覗き込む。
私はちょっと天井を仰ぎ、唇を尖らせた。
「そんな大した名前じゃないよ。それに実を言うとね、少年が手に入れた名前は、本名じゃなくてあだ名なの」
「あだ名?」
私は小さく頷きながら、言葉を続ける。
「少年は、色んな人と出会いながら少しずつ自分を受け入れていくんだけど、結局、自分の『本当の名前』に辿り着くことはできないんだ。でも、旅の途中でできた友達が、少年に『あだ名』をつけてくれるの。気付くと旅で出会った人たちが、みんなあだ名で呼ぶようになっていて…。そこで少年は『本名なんて必要ない。みんながつけてくれたあだ名が僕の名前だ』って言って、これからの人生を歩むことを決意するの」
──私の言葉が落ちたその時。
安吾はじっと一点を見つめていた。
柔らかな笑みは消え、瞳が僅かに震えている。その瞳には微かに光が浮かび、唇が小さく震え出していた。
「安吾?」
安吾はまるで、息をすることさえ忘れているかのように動かない。目を見開いたまま、ただじっと虚空を見つめている。
次の瞬間、彼の瞳から、一筋の涙が真っ直ぐにこぼれ落ちた。そうしてようやく、安吾は微かに息を吐く。まるで心の中に押し込まれていた何かが弾けたように。
突然のことに、私は戸惑いながら安吾の背中にそっと手を添える。すると、安吾は目をぎゅっと閉じ、頭をがくりと前に倒した。枷のついた両手で頭を抱え、小さく震えている。
「どうしたの?頭、痛い?」
私は右手で安吾の背中をさすりながら、左手で彼の手に触れる。その手はとても冷たく、震えていた。
「落ち着いて、無理しないで」
できるだけ静かにそう告げる。しばらくの沈黙の後、安吾は顔を伏せたまま、震える声で絞り出すように呟いた。
「……焔だ」
「え?」
「私が…つけたんだ。稜馬の…あだ名を」
その言葉に、私は息を呑んだ。
──焔
彼の従弟、御影稜馬だ。
あの襲撃事件の後、SPTに入隊して名乗り始めたという名前。
あれは、「名前」じゃなくて「あだ名」だった…?
「…思い出した。稜馬──焔は、あの日、私が逃がした。ミレニアに捕われた後も、ずっと気にかけていた。無事逃げ切れたのかと。弟は…生き延びて…SPTにいたのか」
彼の涙が、ぽたりと落ちる。枷がつけられた手のひらに。そして、その手を握っていた私の手にも。その涙は、とても温かかった。冷たかった彼の手が、徐々に温かさを帯びてしまうほどに。気が付けば、私の目からも涙がこぼれていた。
稜馬は生きていた。
それをただの「情報」ではなく、彼は今、心で感じ取ることができたのだ。
「……良かったね、安吾」
私はそっと言いながら、彼の背中をさする。
「稜馬はきっと、安吾に気付いて欲しかったんだよ。自分が生きてるって。だから今も、焔って名乗ってるんだよ」
私は声を震わせた。きっとそうだ。それ以外に、安吾がつけたあだ名を名乗る必要がどこにあるのだろう。稜馬はきっと、今も安吾を想っている。彼のために戦い続けているのだ。すると、安吾が呟くように言葉を絞り出した。その声には、これまで感じたことがないほどの、苦悩が滲んでいた。
「……十年」
「え?」
「私が眠っていた間も、弟は……焔は私のためにずっと戦い続けていたというのか。焔にも……人生があったというのに……」
安吾は唇を噛みしめたまま、ただ黙って涙をこぼし続けた。私の膝に頭を埋め、肩を震わせている。私は堪えきれず、両腕で彼をさらに強く抱きしめた。
彼の中で渦巻く感情──。
弟を想う温かな想いと、眠り続けた十年という空白への悔しさ、そして自責の念。彼の感情が今、涙となって流れ、私の胸の奥まで流れてくる。
私はそっと目を閉じ、彼を抱きしめながら、同じ涙を流した。
切り裂かれた兄弟の絆を繋げた、たったひとつの「あだ名」。
この人を絶対に、焔と会わせる。そんな想いに、胸を熱くしながら。