安吾が思い出した記憶は、ほんの一部に過ぎなかった。
彼によると、焔もまた安吾にあだ名をつけていたらしい。だが、そのあだ名がどうしても思い出せないという。
「もどかしい」と嘆く安吾の表情は、言葉とは裏腹に明るかった。自分のあだ名が思い出せなくても、安吾は「焔」を思い出した。彼が生きているという事実が、安吾の中に再び火を灯したのだ。
「…咲良のおかげだ。ありがとう」
焔を思い出した日の夜、安吾はそう言った。
私がしたことといえば、スケッチブックを見せて、彼と一緒に涙を流したくらいなのだが、そう言って貰えることが素直に嬉しかった。
安吾と話すようになってから、私はずっと言いようのない罪悪感に囚われていた。
母──芙蓉とはすでに疎遠だが、それでも血の繋がりがあることに変わりはない。母が彼や彼の家族の人生を狂わせ、奪ってきたことが、十字架のように重くのしかかっていたのだ。
そんな私に気付いたのだろう。安吾は折に触れて「気にするな」と言葉をかけてくれた。焔のことを思い出した時も、彼は喜びより、焔が自分のために十年という時を費やしたことを悔いた。
安吾は自分の不幸を嘆くより、誰かを想うことができる人なのだ。それは私に向けられることもあれば、焔に向けられることもあるのだが、どの想いも深くて、真っ直ぐだった。
その優しさが、切なくて苦しくて、だけどとても愛おしいと思った。
──ザッザッ…
時刻は朝六時。
私はいつもより早く目が覚めた。今は日課である絵の下書き中。鉛筆の音が静かに部屋に響く中、私は昨日のことをぼんやり思い返していた。
ふと髪に何かが触れた。ハッとして顔を上げて隣を見た瞬間──。
「…えっ…ちょ…ちょっ……!」
私は思わず仰け反った。
すぐ隣に、安吾が座っていたのだ。
「い、いつ…!?いつからそこに!?」
大げさに驚く私が可笑しかったのか、安吾は口元を緩めてくすりと笑う。
「…ニ十分くらい前かな」
「え!!結構じゃん!…声くらいかけてよ!」
「いや…真剣に描いていたから。タイミングが…」
「ビックリするじゃん!もう…」
「失礼、そんなに驚くとは」
安吾は謝りながらも楽しげに笑う。私も、ため息交じりに肩を落としながらも、つられて小さく笑った
「まったく、もう…」
私はソファーに座り直し、スケッチブックを膝に戻す。しばしの沈黙の後、鉛筆の音が静かに部屋に響き始めた。
「…凄いな」
安吾がスケッチブックを覗き込みながら、感心したように呟く。
「何が?」
「描く速さだよ。とんでもなく速く描くな、咲良は。それなのに、線が柔らかい」
驚いた。
安吾──絵心があるのかも。
私の絵の特徴…線の柔らかさに気付いてくれるなんて。
「ありがとう。私ね、色よりも線を大事にしてるの」
「線?」
「線は、描き方によって天使にも悪魔にもなるっていうか…絵や物語の印象を決める、一番の要素だと思ってるの。だから、私の絵は普通の絵描きさんよりもちょっと線が多めなんだ。色塗りはね、失敗しても色を重ねてカバーできるけど、線は一発勝負でさ。そんなところが好きなの」
「もし、失敗したら?」
「失敗もそのまま残しちゃう」
私の言葉に、安吾は少し驚いたように笑った。
「線はどうしても揺らぐからね。思ったよりズレちゃったって思うこともあるよ。でも、そのまま描ききって、仕上げちゃう。これが不思議なもんで、後から見返すと『あれ?案外いいじゃん』って思えることの方が多いんだ。私が楽観的すぎるのかもしれないけど」
こんな風に、自分の「線」の話を人にするのは初めてだ。
安吾の前では、不思議とこんな話が自然にできる。
嬉しい反面、ちょっと照れくさくて私は笑いながら顔を伏せた。
「性格が出てるな、絵にも」
「え?」
思わぬ言葉に、私は顔を上げる。
「真っ直ぐな咲良は、絵も真っ直ぐだ」
「そう…かなあ」
穏やかな声と視線。
胸の奥がじんわりと揺れる。最近、安吾と話すと心臓が騒がしい。私は目を泳がせ、顔の前でパタパタと手を振った。
「私なんて全然下手な方だよ。うまい人なんて、いくらでもいるし」
私は少し大げさに笑った。
照れているのを隠すために、自分でも取り繕っているのがわかる。
すると、安吾がすっと私の顔を覗き込んできた。
「咲良の絵、私は好きだけどな」
その言葉が耳に触れた途端、顔から全身へ、一気に熱が駆け抜けた。
高鳴る鼓動。言葉の意味を
嬉しい。でも、恥ずかしい。
この気持ちを誤魔化そうと思えば思うほど、頭がこんがらがる。
「咲良?」
私はバッと立ち上がった。今きっと、顔も耳も、首筋まで真っ赤だ。こんな顔を見られたら、絶対に変に思われる。
安吾は私の絵を褒めてくれただけ。
私自身をどうこう言ったわけじゃない。
それなのに、何を意識しているんだろう、私は。
「それはどうも。下書きはこれくらいにしようかな…私、お風呂掃除してくるね」
そう言って、私は安吾の膝の上に置かれたスケッチブックに手を伸ばした。さり気なくそれを取り返そうとした時──。
安吾の足につけられた枷に、足を引っかけてしまった。バランスを崩した私は、そのまま重力に引き寄せられるように、安吾の胸へ顔を埋める。赤く火照った顔は、さらに熱を帯び、心臓も大きく跳ねる。息をするのも忘れたまま、私は数秒間、身動きができなかった。
時計の秒針が、静かに「コツ、コツ」と耳に響く。
「…ごめん。つまづいちゃった」
私はか細い声を絞り出しながら、そっと安吾の腕に手を添え、体を離そうとする。その時、安吾の手が私の手首をしっかりと掴んだ。その力に引き寄せられ、私は再び、彼の胸元に抱き寄せられる。
どくん、どくんと、強くなる心臓の音。
自分の音と、彼の音。微かにズレていた二つの心音は次第に溶け合い、重なり合っていく。
「咲良」
私はゆっくりと顔を上げ、安吾を見つめた。彼の目はいつも通り穏やかだった。だが、その視線は徐々に熱を帯び、静かに私を射抜いてくる。熱さに目を背けずにいると、安吾はそっと、顔を近づけてきた。
次の瞬間、唇に柔らかなぬくもりが触れた。心に深く染み込むような、温かい感触。しばらくして、安吾は静かに唇を離した。目を開けると、彼は僅かに目を泳がせていた。その様子に私はくすりと笑い、今度は自分から唇を重ねた。
それから少し経った後、私たちは顔を離して、小さく笑い合った。お互いの想いを確かめ合うように。
その時──。
──ピピピピピ…。
室内に甲高い通信機の音が鳴り響いた。突然の音に、私は体をビクつかせる。
遊佐だ。いつもなら決して鳴らない時間帯。幸せな時間から一転、私は一気に不安に駆られた。まるで何かが急速に動き始めたような、そんな予感がしたのだ。