目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第14話 相愛

 安吾が思い出した記憶は、ほんの一部に過ぎなかった。

 彼によると、焔もまた安吾にあだ名をつけていたらしい。だが、そのあだ名がどうしても思い出せないという。


 「もどかしい」と嘆く安吾の表情は、言葉とは裏腹に明るかった。自分のあだ名が思い出せなくても、安吾は「焔」を思い出した。彼が生きているという事実が、安吾の中に再び火を灯したのだ。


「…咲良のおかげだ。ありがとう」


 焔を思い出した日の夜、安吾はそう言った。

 私がしたことといえば、スケッチブックを見せて、彼と一緒に涙を流したくらいなのだが、そう言って貰えることが素直に嬉しかった。


 安吾と話すようになってから、私はずっと言いようのない罪悪感に囚われていた。


 母──芙蓉とはすでに疎遠だが、それでも血の繋がりがあることに変わりはない。母が彼や彼の家族の人生を狂わせ、奪ってきたことが、十字架のように重くのしかかっていたのだ。


 そんな私に気付いたのだろう。安吾は折に触れて「気にするな」と言葉をかけてくれた。焔のことを思い出した時も、彼は喜びより、焔が自分のために十年という時を費やしたことを悔いた。


 安吾は自分の不幸を嘆くより、誰かを想うことができる人なのだ。それは私に向けられることもあれば、焔に向けられることもあるのだが、どの想いも深くて、真っ直ぐだった。

 その優しさが、切なくて苦しくて、だけどとても愛おしいと思った。


 ──ザッザッ…


 時刻は朝六時。

 私はいつもより早く目が覚めた。今は日課である絵の下書き中。鉛筆の音が静かに部屋に響く中、私は昨日のことをぼんやり思い返していた。


 ふと髪に何かが触れた。ハッとして顔を上げて隣を見た瞬間──。


「…えっ…ちょ…ちょっ……!」


 私は思わず仰け反った。

 すぐ隣に、安吾が座っていたのだ。


「い、いつ…!?いつからそこに!?」


 大げさに驚く私が可笑しかったのか、安吾は口元を緩めてくすりと笑う。


「…ニ十分くらい前かな」

「え!!結構じゃん!…声くらいかけてよ!」

「いや…真剣に描いていたから。タイミングが…」

「ビックリするじゃん!もう…」

「失礼、そんなに驚くとは」


 安吾は謝りながらも楽しげに笑う。私も、ため息交じりに肩を落としながらも、つられて小さく笑った


「まったく、もう…」


 私はソファーに座り直し、スケッチブックを膝に戻す。しばしの沈黙の後、鉛筆の音が静かに部屋に響き始めた。


「…凄いな」


 安吾がスケッチブックを覗き込みながら、感心したように呟く。


「何が?」

「描く速さだよ。とんでもなく速く描くな、咲良は。それなのに、線が柔らかい」


 驚いた。

 安吾──絵心があるのかも。

 私の絵の特徴…線の柔らかさに気付いてくれるなんて。


「ありがとう。私ね、色よりも線を大事にしてるの」

「線?」

「線は、描き方によって天使にも悪魔にもなるっていうか…絵や物語の印象を決める、一番の要素だと思ってるの。だから、私の絵は普通の絵描きさんよりもちょっと線が多めなんだ。色塗りはね、失敗しても色を重ねてカバーできるけど、線は一発勝負でさ。そんなところが好きなの」

「もし、失敗したら?」

「失敗もそのまま残しちゃう」


 私の言葉に、安吾は少し驚いたように笑った。


「線はどうしても揺らぐからね。思ったよりズレちゃったって思うこともあるよ。でも、そのまま描ききって、仕上げちゃう。これが不思議なもんで、後から見返すと『あれ?案外いいじゃん』って思えることの方が多いんだ。私が楽観的すぎるのかもしれないけど」


 こんな風に、自分の「線」の話を人にするのは初めてだ。

 安吾の前では、不思議とこんな話が自然にできる。

 嬉しい反面、ちょっと照れくさくて私は笑いながら顔を伏せた。


「性格が出てるな、絵にも」

「え?」


 思わぬ言葉に、私は顔を上げる。


「真っ直ぐな咲良は、絵も真っ直ぐだ」

「そう…かなあ」


 穏やかな声と視線。

 胸の奥がじんわりと揺れる。最近、安吾と話すと心臓が騒がしい。私は目を泳がせ、顔の前でパタパタと手を振った。


「私なんて全然下手な方だよ。うまい人なんて、いくらでもいるし」


 私は少し大げさに笑った。

 照れているのを隠すために、自分でも取り繕っているのがわかる。

 すると、安吾がすっと私の顔を覗き込んできた。


「咲良の絵、私は好きだけどな」


 その言葉が耳に触れた途端、顔から全身へ、一気に熱が駆け抜けた。

 高鳴る鼓動。言葉の意味を反芻はんすうする前に、体が反応していた。


 嬉しい。でも、恥ずかしい。

 この気持ちを誤魔化そうと思えば思うほど、頭がこんがらがる。


「咲良?」


 私はバッと立ち上がった。今きっと、顔も耳も、首筋まで真っ赤だ。こんな顔を見られたら、絶対に変に思われる。


 安吾は私の絵を褒めてくれただけ。

 私自身をどうこう言ったわけじゃない。

 それなのに、何を意識しているんだろう、私は。


「それはどうも。下書きはこれくらいにしようかな…私、お風呂掃除してくるね」


 そう言って、私は安吾の膝の上に置かれたスケッチブックに手を伸ばした。さり気なくそれを取り返そうとした時──。


 安吾の足につけられた枷に、足を引っかけてしまった。バランスを崩した私は、そのまま重力に引き寄せられるように、安吾の胸へ顔を埋める。赤く火照った顔は、さらに熱を帯び、心臓も大きく跳ねる。息をするのも忘れたまま、私は数秒間、身動きができなかった。


 時計の秒針が、静かに「コツ、コツ」と耳に響く。


「…ごめん。つまづいちゃった」


 私はか細い声を絞り出しながら、そっと安吾の腕に手を添え、体を離そうとする。その時、安吾の手が私の手首をしっかりと掴んだ。その力に引き寄せられ、私は再び、彼の胸元に抱き寄せられる。


 どくん、どくんと、強くなる心臓の音。

 自分の音と、彼の音。微かにズレていた二つの心音は次第に溶け合い、重なり合っていく。


「咲良」


 私はゆっくりと顔を上げ、安吾を見つめた。彼の目はいつも通り穏やかだった。だが、その視線は徐々に熱を帯び、静かに私を射抜いてくる。熱さに目を背けずにいると、安吾はそっと、顔を近づけてきた。


 次の瞬間、唇に柔らかなぬくもりが触れた。心に深く染み込むような、温かい感触。しばらくして、安吾は静かに唇を離した。目を開けると、彼は僅かに目を泳がせていた。その様子に私はくすりと笑い、今度は自分から唇を重ねた。


 それから少し経った後、私たちは顔を離して、小さく笑い合った。お互いの想いを確かめ合うように。


 その時──。


 ──ピピピピピ…。


 室内に甲高い通信機の音が鳴り響いた。突然の音に、私は体をビクつかせる。


 遊佐だ。いつもなら決して鳴らない時間帯。幸せな時間から一転、私は一気に不安に駆られた。まるで何かが急速に動き始めたような、そんな予感がしたのだ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?