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第16話 信号

「…兄はかつての幸村さんのように、人狼族の血を難病治療に役立てようとしていたのです。そんな時、気付いてしまった。ミレニアがその血を一般人に投与し、非人道的な活動をしていることに。兄はそれを告発しようとしました。ですが、その直後に命を奪われた。血の秘密に…迫り過ぎたのです」


 その瞬間、遊佐の拳が僅かに震えた。


「それ以来、私はミレニアの崩壊を胸に生きてきました。ですが、人狼の力を手にした芙蓉を討つなど、到底できません。だからあなた様を起こそうと。人狼族最凶のあなた様なら、桂木芙蓉を確実に討てると思って」


 そう言うと、遊佐は深く頭を下げた。


「申し訳ございません。私の勝手な行動でお二人を巻き込んで…」


 安吾は小さく息を吐くと、諦めたように笑った。途端に立ち込めていた重たい空気が軽くなる。


「頭を上げろ。お前がいなければ、私はずっと眠ったままだった。感謝こそすれ、謝られる理由はない」

「そうそう。私も最初はムカついたけど、最近は食事が楽しみになってたし。あれ、あんたが作ってくれてたんでしょ?料理うまいじゃん」


 安吾のフォローにちゃっかり便乗する私。

 遊佐は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに照れたように笑った。ほんの僅か、和む空気。そんな中、安吾の声が再び真剣さを帯びる。


「だが、芙蓉を討つのは並大抵のことではないな」

「仰る通り…最大の難関でございます。なにせ、芙蓉の顔は幹部以外わかりませんから」


 私はハッとした。

 …そうだ。母は、頻繁に整形をして顔を変えていた。私と暮らしていた時から、そうだったのだ。


「先ほどお伝えした情報を掴んだのは、今朝のことです。実は、私はずっと、桂木芙蓉の現在の顔写真を手に入れるために動いておりました。ですがそれができず…顔写真さえあれば、あなたに現在の芙蓉の顔をお伝えできたのに」


 安吾は少し考えるように目を伏せ、言った。


「それでも…中央刑務所で、桂木芙蓉がルナブラッドの宿主である私に近づく可能性は高い。その時、言葉や仕草で芙蓉だと確信できた時点で、即座に討つ。それしかなさそうだが…あまり期待しないでくれ」


 安吾が声を潜める。首を傾げる私の前で、彼はゆっくりと両手を上げた。その時、手に絡む枷が静かにカラリと鳴った。


「この枷──どうも人狼族の力を抑制するらしい。散々試したが、力を出せるのは長くて十秒。目の前…手が届くところにいるならともかく、誰かわからない状況で討つのは…難しい」


 驚いた。以前一度だけ、人狼化した安吾の「気」が人を溶かすのを見たことがある。あの圧倒的な力が、たった十秒しか保てないなんて。


「ねえ、安吾。壊せないの?その枷」


 私は思わず食い気味に問いかけた。だが、安吾はゆっくりと首を振る。


「無理だ。壊すにはもっと力がいる。私と同じ人狼族ならもしくは…」


 私は安吾と視線を交わしながら、ある確信を抱いた。彼の枷を壊せる人物がいるなら、それは人狼族しかいない。


 ──焔だ。


 だが、安吾は今ミレニアの陣地、一方で焔はSPT…。この状況をどう伝えればいいのか。それに、母をどう探せばいいというのだ。

娘の私でさえ、もう十六年以上も疎遠。今の母がどんな風貌なのかはわからない。


 でも、待てよ。


 私は思わず手を顎に当てる。何か、母にしかない特徴は…。


 そしてふと、あることを思い出した。


 そういえば…!


「あのね、あんまり役に立たないかもしれないんだけど…」


 私の声に、安吾と遊佐が同時に顔を上げた。


「母は確かに、顔を何度も変えていた。でもひとつだけ、どうしてもできなかったことがあるの」

「できなかったこと?」


 私は頷き、言葉を続ける。


「指紋。母の両手には、指紋がないの。手術しても、そこだけはどうにもできなかった。だからもし、怪しい人物がいたら、その人の『指』を見てみて。指紋が無かったら、桂木間違いなくそれが母──桂木芙蓉だよ」

「…本当か?」


 安吾は驚いたように目を見開く。


「母は人狼族の血を取り込んで、力と若さを手に入れた。でも、その代償も大きかったの。特に手足の末端が…内側から焼けるように損傷して、指紋はすべて消えてしまった」


 私は言葉を区切り、ゆっくりと息を吐く。


「…でもね、ここまで話しておいてなんだけど、見極めるのは相当難しいと思う。完璧主義者の母は指紋がないことをひどく気にしていた。だから、シリコン製の指紋カバーを常に被せて誤魔化してたの。パッと見ただけじゃ多分気付けない。手に触れることができれば、気付けるかもしれないけど…」


 私が言い終わったのと同時に、安吾の表情が鋭さを増した。そしてそのまま、ゆっくりと息を吐く。まるで、思考を深く巡らせているかのように。


「そうだとしても、かなり有益な情報だ。問題はどうやって見極めるかだな。咲良の言う通り、近くで見るか、指に触れなければ…私にそれができるだろうか」


 確かにそうだ。ルナブレッドの宿主である安吾は、ミレニアに起きていることもバレてしまっただろうし、これからもっと厳重に監視されるはず。遊佐も建前はミレニアの使徒なので、目立った行動はできないだろう。


となれば──。

その時、ふとある考えが浮かんだ。私は躊躇ためらわず、それを口にする。


「ねえ、母の指紋のこと、SPTにも伝えられないかな?安吾と遊佐が動けなくても、SPTがこの情報を知っていれば、母を見つけてくれるかも!」


 私の言葉に、二人は即座に視線を交わす。一瞬の間の後、安吾の頬がフッと緩んだ。


「いいアイデアだ」

「あの…よろしいでしょうか?」


 遊佐が、不意に私の言葉を遮った。何かを思い出したのか、焦るように口を開く。


「これはまだ半信半疑なのですが、もしかするとSPTの密偵がこの屋敷内に潜んでいるかもしれません」


 予想外の言葉に、安吾の眉が微かに動いた。


「この屋敷の防犯システム──特にこの地下エリアのカメラ映像は、私以外アクセスできないはずですが、つい先日、私のパソコンから覚えのない閲覧履歴がございました。詳しく調べたところ、その映像はSPTに送られていたのです。それに気付いたのは一週間前。まだ、潜んでいる可能性はあります」


 SPTの密偵。なんと心強いことか。

 接触できれば、安吾の状況も母の指紋のことも伝えられる。そんな小さな希望を持って安吾を見ると、彼の表情は一転、険しさを帯びていた。


「…密偵か。接触できるならしたいものだが、なにせ時間が無さすぎる。お前も建前上はミレニアの使徒…今の状況で味方だと信じてもらうのは難しいな」


 遊佐は小さく肩を落とした。もっと早く安吾に話していれば──そう後悔しているのだろう。唇を噛み、焦りと迷いが横顔に浮かぶ。そんな彼に、安吾が静かに口を開いた。


「気にするな。了解した。密偵と接触が難しいなら、直接連絡を取ればいい」

「直接…とは、電話での通報…ですか?」


 安吾が頷く。


「しかし、信じて貰えるでしょうか?単なる悪戯や、攪乱目的の偽情報だと思われるかもしれません。それに私の電話はミレニアに傍受される可能性が…」

「モールスで伝えろ」

「モールス…電話で、ですか?」

「普通の通報なら取り合わないかもしれんが、手の込んだモールスの音声なら信ぴょう性が増すし、傍受されていたとしても誤魔化しやすい。可能なら、三度ほど同じ暗号を繰り返せ。その方が意図的に暗号を送っていると思わせられる」


 遊佐は戸惑いながらも安吾の話に耳を傾ける。安吾はさらに鋭く言葉を重ねた。


「とはいえ、お前にはまたすぐに監視カメラと盗聴器が仕掛けられるはず。やるのはこの後、なるべく急げ。暗号で送る情報は、ひとつだけにしろ」

「ひとつ…でございますか?」

「『芙蓉には指紋がない』──それが今SPTに伝えるべき、最優先の情報だ」

「やってみます」


 遊佐はそう言うと、力強く頷いた。


「ねえ…その幸村凪って子をミレニアが拉致しようとしていることは伝えなくていいの?」

「心配するな」


 安吾は、どこか楽しげに笑う。


「護衛についているのはあの焔。あいつなら命に代えてもその子を守るさ。それに、芙蓉に指紋がないことを伝えられれば、こちらが伝えたい他の意図も察してくれるだろう。半分賭けだが、SPTにも勘の鋭い者はいるはずだ」


 …他の意図?

 安吾の真意がわからず、戸惑う私。だが、安吾は顔を伏せ、手足の枷をカラカラと鳴らし、部屋を歩きだした。他に策がないか、思考を巡らせているのだろう。


「SPTに我々ができることは、せいぜいここまでか。あとは、こちらが芙蓉を見つけることができればいいのだが」


 彼は時計に目をやる。遊佐と話し始めて、すでに十分以上が経っていた。あと十分ほどでミレニアの使徒が部屋に来る。時間がない。


 その時、私の脳裏のうりに、ある考えが閃いた。


 母と会うには、母を討つには、もっと確実な方法がある。

 それも、娘の私にしかできない方法が──。


 私は顔を上げ、安吾を見据えながら言葉に力を込めた。

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