「因子様も…」
「分かっています。あれは浪子様ではないのでしょう」
お強い方だ。ご友人の亡霊を見せられておられるのに、気丈にふるまっておられる。
それと対照的なのは、
「しっかりしてください。あれは食べ物ではありません」
貞暁は義宗の背中を思いっきり叩いた。
「腹が減った」
こんな時でもかよ。
「終わったら何か買ってあげますから」
「さすが、武丸様。太っ腹だな」
子どもかよ。
貞暁は心の中で、悪態をつきつつ、足で円を描きつつ音を鳴らす。
すると、鬼言が浮き上がり、三人を包み込んだ。
「これは?」
やはり、因子様には視えておられる。
だが、そう思った瞬間、速度を上げて、向かって来た母上は鬼言に弾かれて投げ飛ばされた。
「ああっ!猪が!」
お前はいい加減、黙っててくれ!
「浪子様!」
思わず駆け寄ろうとした因子様の腕を掴んだ。
苦しみ、もだえながら倒れ込んだ女が顔を上げた。
だが、母上ではない。知らない女性だ。
「猪が女に化けた!」
義宗も女性に視えているのか。
空に浮かぶ月に雲がかかり始めている。
術の進行が早まっているな。
「因子様にはまだ、浪子様に?」
「ええ~」
「そうですか」
おそらく、あの月がすべて雲に隠れてしまえば、取返しのつかない事になる。
この間にもゆったりと起き上がった浪子様の周囲に瘴気が集まり、そして、同じ姿の少女が10人、出現した。さらに微量の鬼力まで感じる。
「姉妹か?」
「浪子様は一人娘です!」
こんな時まで押し問答、しないでもらえます?
危機感、なさすぎだろ!
「術の副産物です。おそらく、悪鬼の誕生が近い!」
「そもそも、どうして浪子様のお姿をしているんです?」
「この
10人の浪子様が一斉に突っ込んできた。
――カキン!
義宗は刀を抜き、浪子様の一体に斬りかかった。
「斬った感触がねえっ!」
そう言った義宗に浪子様は大きな手で襲い掛かった。
それを素早くよけ、腕を切り落とす。
地面に落ちた腕は瘴気となり、空へと消えていく。
「はあっ!」
貞暁は声と同時に鬼言を放った。
まばゆい光を放ち、浪子様達は苦しみ出すが、また、新しい浪子様が出現する。
「切りがない。これだから、外法は恐ろしいんだよ」
舌打ちしたくなった。また、言葉遣いが乱暴になってくるがそこまで気も回らない。
「外法術とは具体的にどのようなものなのですか?」
背中に隠すようにして抱え込む因子様は聞いてきた。
「使用するには危険とされた陰陽術の類の事を指す言葉ですが、この状況化で表すなら悪疫を生む可能性が高い術と表現するべきでしょうか」
「悪疫を?」
「今まさに浪子様の姿を借りて、悪鬼となりつつあるのですから」
――
瘴気を祓い、悪疫を滅する陰陽術とは異なり人の業や悪意を糧としてあみ出された負の遺産。内裏で横行した呪いや不自然な死の影にもこの術が用いられてきたとささやかれている。その特徴は必ずしも霊力を必要としない点だ。だから、素養のない人間もやり方さえ知っていれば、使えてしまう。そして、その力の源は悪疫に由来する物がほとんど。そのため、術と同時に悪鬼も生み出されるのだ。
外法術が活発に使用された100年ほど前までは、魅惑的なうたい文句で人々を誘い込む、書物も頻繁に流通し、陰陽師たちを非常に悩ませたともいう。
最近はあまり、聞かなくなったのにな。
それにしても、術が発動してからの速度が速すぎる。
相手は相当の手練れか?
だが、浪子様を想っておられる方だとするなら…。
「ひどい。どこまで浪子様を愚弄すれば気がするの?こんな形であの方の姿を見たくなんてなかったのに!」
「因子様!あぶない」
隠れていた因子様は鬼言の結界の外に飛び出した。
そして、未だ、浪子様の一体と死闘を繰り広げる義宗の腰に刺さっていた小刀を抜き、浪子様の中に突っ込んでいく。
――グッ!
小刀を浪子様の振り下ろす因子様。
剣先は浪子様の腕で受け止められ、二人はにらみ合った。
「ううううっ!」
唸る波子様。
「その顔はやめて。不愉快だわ!」
まだ、完全な悪鬼ではないにしろ、互角に戦ってる!
もう、俺必要ない?
「こわっ!」
心の中で震える貞暁と素直な感想を述べる義宗であった。
だが、複数の浪子様達は因子様目掛けて、飛んでくる。
「させません!」
貞暁は連続で鬼言を唱えた。
やばい。また、喉が痛くなってきた。
それにしても、一向に事態が収拾しない。
外法術が危険なのは解除も難しいからだ。
平安時代によく用いられてきたのは術をかけた本人を殺す事。
それでも、完全な解除にはいかない。ただ、力が弱まるだけだ。
脆くなった術を素養のある人間が叩く。
そのやり方が一般的だったとばあさんから聞いた気がする。
しかし、それも発動した直後だけで、悪鬼が完全に復活したらその限りではない。
そして、厄介なのはその先だ。外法術由来の悪鬼は非常に強いのだ。
正直、沢山の悪鬼が外法術によって誕生したはずなのに未だ人の世が続いているのが不思議なぐらいだ。よほど、対処した人々が優秀だったのか。
どちらにしてもかなり頑張ったのだろうな。
その努力を俺が台無しにしてしまうのは気がひける。
だから、何としても食い止めなくては…。
どのような思惑で使用したとしてもこの術をかけた人間は近くにいるはずだ。
まだ、悪鬼に飲み込まれていない事を祈るばかりだが…。
それにしても、俺以外、恐ろしく強くない?
義宗は戦馬鹿だから当然であるのだが、因子様もなんだかんだで小刀の扱いが上手い気が?
公家の姫君は戦能力も必要なのか?
「浪子様を返して!」
涙声で叫ぶ因子様に浪子様の一体が動きを止めた。
「な…み…」
「えっ!」
因子様の小刀を握る力を弱めた。
「声が聞こえる…」
彼女の声に反応するように浪子様の一体は妙齢の男性の姿に変わっていく。
「昌家様…」
震える因子様の声が静かに消えていった。