「こんにちは」
ちゅんちゅんとスズメが屋根の上で飛んで鳴いてるのが聞こえる。結愛の体は一瞬固まった。
「え、あ。うん。こんにちはっておはようでもいいかなぁ? ハハハ……」
亜玖亜をぎゅっとつかまえて笑ってごまかした。髪を急いで整えるが遅かった。
「結愛、子だくさんだったんだね」
かなりびっくりした顔をしていた裕哉を結愛は見られてはいけないところを見られたなと思ってしまった。
「あ、ごめん。ここに置いておくね。回覧板。失礼しましたーーー」
片手にチワワのリードを持っていた裕哉は、玄関の棚に回覧板を置くと一目散に逃げて行った。チワワのまめが急げとせかしていたためだ。本当はもう少し話をしたかったが、結愛にはそうは見えなかった。
「あー……見られちゃった。こんな格好、見られたくなかったなぁ」
クタクタのよれよれになったパジャマ代わりのトレーナーとズボン。パーマかかったみたいにくしゃくしゃになった寝癖。化粧もせずにした顔。眉毛が無くて、怖い人になっていた。ガクッとうなだれていると、亜玖亜がニコニコと笑っている。頬をぺちんと両手でたたいて逃げていく。
「こーらぁーー」
鬼ごっこが始まった。樹絵瑠も楽しそうにきゃきゃッと喜んでいる。それを聞いた麻祐子は、洗濯物がたくさん入ったかごを持って呆れ顔だ。
「結愛! 洗濯干すから暴れないでー。ほら、向こうで洸が泣いてるよー」
「え、嘘。はいはい! 今、そっち行きます! 亜玖亜、もう鬼ごっこ終わりね」
「えーー、まだやるぅ」
「だ! だ!」
樹絵瑠と亜玖亜は楽しくて、結愛の背中に覆いかぶさる。
「うわぁー」
ばたんと倒れると、洸は火を噴いたようにギャン泣きした。
「もう、いやぁ……」
「ただいま、戻りましたぁ~」
ガラッと玄関の引き戸を開けて入ってきたのは、耕太郎の車で出かけていた碧央だった。車のカギを玄関の小さな小物入れに入れると、結愛が子供たちに乗られて倒れているのが見えた。居間ではギャン泣きしている洸の声、そして縁側では洗濯物干しをする麻祐子がいた。庭では、耕太郎が盆栽の選定をしている。
「やっと帰ってきたぁ。碧央、助けてぇ」
「おかえりなさい。碧央くん、洸ちゃん抱っこしてあげて」
体を動かすことができない結愛は、声だけ出して助けを求める。きゃきゃと未だ2人は乗り物のように楽しんでいる。麻祐子はバスタオルと洗濯ばさみを持っていた。
「帰ってきてすぐのミッションはえげつないっすね」
苦笑いしながら、洸のいる居間へ駆け寄った。もう帰ったら休む暇ないんだと実感する。子育てって半端ないなと数時間前の自分と比べてしまう。
「もう、お父さんったら、子育てしたことないから頼んでもただ見てるだけで抱っこもしないし、おむつ交換は臭いとか言うのよねぇ。全く、役に立たないわ。定年退職まもなくだって言うのに……。あ、ウチ兼業農家だから」
「え、そうだったの。お父さん、外で働いてたんだね」
今で緑茶を注ぎながら、麻祐子はぶちぶちと愚痴りだす。おもちゃで遊ぶ樹絵瑠と亜玖亜の横で碧央から洸の抱っこを引き継いだ。
「前までは農協の手伝いで何とかやってたんだけど、採算合わなくてね。スーパーのレジカートの運び方するの見た事ない? あんな感じの仕事してたのよ。臨時職員だからさほど給料にはならないけど、ぼんやりしてるよりマシかしらね。農作業だけではボケそうでね。人と会うことないと、だらしがないでしょう」
「確かにそうだよね。人と会って緊張感あるし……大変ね。今の60代も」
「うちが農家で自営業だから仕方ないわよ。あなたたちは外で働く予定なんでしょう?」
「……うーん、たぶん」
「結愛は? 主婦になるの? まぁ、子育てに集中しないとね。都会は預け先がないみたいだから、厳しいわねぇ」
「あーーまぁ、そうだよね」
その話をするだけでますます3人を育てるのは難しいじゃないかと考え始める。
碧央は、思い切って話し出す。
「あ、俺なんですけど、今はバイトしながら大学通っているので、卒業したら大手会社に就職予定です……ね。未来はわかりませんが」
「それよ。それで大丈夫なの? 食べていける?」
「……樹絵瑠と亜玖亜の養育費は多少、2人の実母から支給されましたが……。まぁ、全部は難しいですが、俺が大学卒業したら何とかできるかなと」
深刻な問題に麻祐子は、ため息をつく。持っていた急須の動きが止まる。
「何とかなるって思ってる? 確かに何とかなると思うけどね。前もって考えておかなきゃいけないこととかあるでしょう。今後の生活。本当に大丈夫?」
2人はその言葉にごくんとのどを鳴らして何も言えなくなった。
「ばっば! 何となる!」
「え?」
不安で心配で仕方ない結愛の母の麻祐子。しっかりしつけたつもりだと思っていた。子育ての仕方が間違ったかと自信を無くす。今後生きていくためにこの子にしてやれることは幸せな空間を作ることと思っていた。樹絵瑠は、感情が乱れて泣きそうになる麻祐子にそっと近づいて抱っこをせがむ。
「何とかなる!」
その言葉に励まされている気がした。麻祐子はぎゅっと樹絵瑠を抱きしめた。心がふと静まり返り、落ち着いてきた。
「お、お茶の時間か? 本当ににぎやかでいいなぁ。楽しいよ、じっじは」
庭にいた耕太郎は、休憩しようと居間に入ってきた。静かな空間でもにぎやかだと言う。その言葉に麻祐子は笑みをこぼす。
「何を言ってるんだか……」
何だか何を悩んでいたか分からなくなった麻祐子は、戸棚の中にあったカステラをみんなに切り分けた。
「カステラ、みんなで食べようねぇ」
大人数で食べるカステラは頬が落ちるくらいにおいしい味がした。
「わーい。ばっば、大好きぃ」
麻祐子の頬にぶちゅーとキスをする樹絵瑠を見て、みんな微笑ましかった。麻祐子は、まんざらでもない様子で喜んでいた。何ものにも代えられないこの空間は貴重なんだと実感する。