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第63話 碧央が気づいたこと

 ふわふわの白いベッドの上、アラームが鳴る。白いふとんの中から手がするっと伸びてきた。ふとんの中があたたかすぎて、とめたアラームも意味がない。伸びた手はまたふとんの中に入っていく。


「ちょっとぉ、碧央。もうやめてよぉ」


 ふとんが波のようにもこもこと動き始めた。寝ていたかと思うと、碧央は、女性の肌に触れ始める。


「もう、久しぶりだからって朝もまたするのぉ。私、もう体力ないから。今日だって、これからバイトあるんだよ」


「……いいじゃん。別に減るもんじゃねぇし」


 体をふとんの中から裸のまま出して、紙たばこにライターで火をつけた。


「あ、あれぇ。前、電子タバコにしたって言ってなかった?」


 ふとんを服代わりに身体を隠して、くるくるパーマの茶色の髪をかき上げる。名前は知らない。いつかどこかで会った大学の同級生だったことは覚えていた。たまたま来たメッセージに返して、暇だからとラブホテルに誘われた。現実から逃げたかったからかもしれない。堅苦しくて、生活があまりにも単調な時間に飽きてきたのかもしれない。結婚ってそういうもんだって前々から人生の先輩たちに教わってきたはずなのに踏み入れてしまった。


「うーん。もう、縛られるものないからさ。紙たばこにしたんだ」

「……碧央、会わないうちに変わったね。何か、碧央じゃないみたい」

「ん? 俺は、前からこんなんだよ。何が違うっていうの」

「結婚するって言うから、もう遊ばないで真面目に奥様に尽くすだろうなって思ってた……私のところに来るってことはやっぱり結婚してもダメンズなんだなぁって。私の考える碧央じゃなかったわ」


 名前も思い出せない女は、あちこちに散らばった服を拾い上げて着替えていく。


「え、どういうことだよ」

「それはねぇ。自分の胸に手をあててよぉーく考えてから行動するのよ。私と遊んでいる暇ないでしょ。こんなに可愛いスマホの待ち受け見せられたら、一緒にいるのは無理よ」


 碧央のスマホを持ち上げて、ロックがかかったままの待ち受け画面を碧央に見せつけた。表示された写真は、子供たち3人の可愛い寝顔が映っていた。いつも騒がしいこどもたちのほんのわずかに天使になったような可愛い顔。結愛と顔を見合わせて、シェアした写真。頭の中が大きな何かで打ち付けられたみたいに衝撃を受けた。大事にしたいものっていったいなんだろうか。胸の奥の方がざわつき始めた。碧央の眉がゆがんだ。


 ほんの些細な幸せ見つけて過ごす時間。

 自分の欲求を満たすための時間。

 家族とともに過ごすあたたかい時間。


 実家の両親に結婚を反対され続けて自信をなくし、こどもたち3人と結愛がいる家に帰ることができなくなった碧央は現実逃避して自己肯定感を高めたかった。家族を裏切ってまで手に入れる必要があるのか。いや、そうじゃない。親子は大切だけど、もっと大切にしなくちゃいけないものを思い出した。


「悪い、俺。先に出るわ」


 碧央は、ベッドから立ち上がり、早々に着替え始める。


「はぁ?! 私の方が先に出るよ!」

「ミカは後から出ろって。俺、先出るから」

「誰がミカですって?!」


 碧央は、地雷を踏んだと思ったが、気にせず舌をぺろりと出して扉を開けた。


「ちょっと、名前を間違った上に会計払うの私?! ふざけるんじゃないわよぉ!!」


 自動精算機の前でハイヒールを投げたが、バチンと扉が閉まった。


「危ない危ない……」


 口笛を吹いて、ズボンに両手をつっこんだ。靴の音が地面に響く。


「あいつ、ミカじゃなかったら、なんて名前だったんだ?」


 再びライターで紙タバコに火をつけようとした。ついつい癖が出た。


「これは、あいつが怒るな……」


 つけようとしたタバコをポケットにしまった。朝方の路地裏で、からすが電線から飛び立っていった。


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