人がまばらな駅のホームには電車のブレーキ音が響き渡っていた。
赤い色の電車がゆっくりと速度を落としながら、駅のホームへと入ってくる。その音を聞きながら、松木重信は目を細めて携帯の画面を睨みつけて文字を打っている。それは家で待つ最愛の女性へと向けた連絡だった。
「今から電車に乗るよ」という文を送ろうとしているのだが、素っ気なさすぎないだろうか、もっと違う書き方にした方がいいだろうかと頭を悩やませていた。そんな彼の顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。
目の前に電車が止まってもなお送る文章は決まらず、結局最初に書いた文のままで送信して胸のポケットに携帯をしまう。そして、閑散としている電車の中へと入り、隅っこの誰もいない席へと腰を下ろした。
携帯が二度ほどぶるりと震えたので、重信は携帯を取り出し確認する。すると、連絡相手である女性──松木奈津美から「うん、わかった。気を付けて帰ってきてね」という短い文が返ってきていた。奈津美からの連絡に、重信は頬を緩ませ「ありがとう」と返信をした。
電車はぷしゅうとガスの抜けるような音と共に扉を閉め、ゆっくりと動き始める。重信はふと窓の外へと目を向けた。そこには夕焼け色の真っ赤な空が広がっている。その赤を切り裂くように黒い鳥が飛んでいる姿を重信は見つけた。
それは燕だ。重信はその姿に目と心を奪われる。無心で燕を目で追うがその姿はすぐに見えなくなってしまい、重信は少しばかりがっかりとした表情を浮かべた。そして、ふふ、と誰にも聞こえない程の大きさで鼻から息を吐くように笑った。彼は自分の行動がおかしくてたまらなくなった。
──どうして燕を追いかけているんだろうな。昔はあんなに嫌いだったはずなのに。
一しきり笑った後、重信はふぅと息を吐き、窓の外をぼんやりと眺める。外に広がる赤い世界は、重信に郷愁をはらむ懐かしさ胸の内にわかせた。感慨深げな表情を浮かべ、太陽が沈むまで田んぼ道を走っていたあの頃を思い出していた。
──そうか、あれからもう三十年も経つのか。
やんちゃだった頃の自分は今の自分とは似ても似つかなくて、重信は子供時代の自分の眩しさに当てられ目頭が熱くさせた。目を閉じて瞼に指を当てて抑え込む。じんわりと熱い物が目の奥に広がっていくのを重信は感じ取っていた。
そうしている間にも次々と記憶は蘇っていく、重信の頭に浮かぶ季節は巡っていく。嬉しい思い出も悲しい思い出も全部重信の頭の中に詰まっている。だが、重信の記憶は、ほとんどが悲しい記憶ばかりだった。普段は蓋をして心の奥底にしまい込んであった記憶が、一つの切っ掛けで呼び起こされてしまった。
重信の記憶の一番深い場所には燕がいる。燕の姿を見る度に過去を思い出し、寂しさを募らせる。過去は彼にとって苦虫を潰したように青臭く苦い物であったが、年老いた今となっては深みのある渋さと感じるようになっていた。
彼にとって思い出とは高級なワインのような物だ。若い頃はとても飲めなかったワインも三十年のヴィンテージともなると柔らかな口当たりとなる。それでも、まだ飲み頃までには程遠い。味わう度に、重信は渋い顔をする。
本当はずっと蓋をしたままでいたい。いっそのこと過去など忘れてしまいたい。重信はそう思うのだが、ふとした拍子に思い出の蓋が開く。それを止めることはできない。
今回もゆっくりと蓋が開いていくのを感じ、重信はそれに身を委ねることしかできなかった。