重信が燕を嫌いになったのは、八歳の時だった。それより以前の彼は別に燕のことは嫌いでもなかった。むしろ、初めて燕のことを見た時は大好きだったと言ってもいい。
元々動物が好きで、何度か父親に犬を飼うようおねだりをしていたが、父親は首を縦に振ることがなかった。そのせいか、重信の関心は自ずと自然で生きている動物へ向くようになっていた。
鳥が特に好きで、よく電線に止まっている雀を見つけては幼少期特有の好奇心旺盛な眼差しで雀が飛び立つまで見つめていた。時折、捕まえてみようと試みたこともあるがすべて空振りだった。その時に転んで母親に怒られたことがある。それから、重信は捕まえるのを挑戦することをやめた。
だが、手が届く場所にいるのに届かない存在を見る度に、それを手に入れたいと思う気持ちは段々と膨れ上がっていく。やがて、重信は鳥と共にあることに思いを馳せるようになった。そんな重信の家に、燕が巣を作りにきたのは四月二日の話だ。重信の燕に関する記憶はこの日を始まりとする。
「お父、あれなに?」八歳の重信が軒下に向かい指をさす。重信の父、利治は息子が指さす先を目で追い、軒先にいる鳥を見つけて「ああ、燕やな」と言った。燕は木で出来た壁をちょんちょんとくちばしで突いている。それを見て、重信は目を輝かせた。
燕という存在を重信はこの時に初めて見た。普段見る鳥とはまったく違うその色合いが彼には新鮮に映って見えたのだ。重信は燕の巣の真下まで走っていき、口をぽかんとあげながら燕をじっと見つめる。
「なぁお父! これなにしてんの!」
「巣を作ってるんや」興奮気味の重信に、利治は淡々と言葉を返す。
「す、ってことは、このツバメさんはこれからここにおるんやな?」
重信は、巣を生き物の家だと認識をしていた。彼は燕が自分の家に宿を作ったのだと思い、嬉しくなった。家を作ったのならこの家にずっと居てくれるだろう。それは図らずも重信が望んだ物そのものだった。まだ燕の生態について何も知らない重信は喜びをあらわにしたが、それを見た利治は渋い表情を浮かべ、無精ひげをいじっている。
「んー、まあ、そうやな」利治は息子の純粋な言葉にどう答えるべきか少し逡巡した後、適当にはぐらかした。
燕はヒナが育てば巣立ちを経ていなくなる。帰ってくることもあるだろうが、ずっとこの巣にいるわけではない。その事実を満面の笑みでいる息子に伝えるのは酷だと思ったのだ。
「それより、ここに燕の巣ができるんなら、自転車は違う場所に置いた方がええかもなぁ」
利治は話題を変えるために自身の横に置いてある小さな自転車を見て重信にそう言った。今日は重信の誕生日で、その贈り物として先ほど自転車を買って来たところだった。
置き場所は燕が巣をかけているところの真下で、この場所は雨避けにちょうどいい場所で、利治は昨日の晩に重信へここに置くようにと伝えていた。
「え、なんでなん。ここにするって昨日言ってたやん」
利治の言葉を聞いた重信の表情は急変した。彼にとって、それは寝耳に水の話だ。家の中に自分専用の場所が増えることが嬉しかったのに、それが一日で覆されてしまったのだ。不服そうな顔を浮かべ、重信は利治に抗議の意を示す。そんな重信を見て、利治は顎をぽりぽりと掻いた。
「でもな、しげ、ここに置いといたら自転車が燕の糞まみれになるぞ」
利治の言っていることは正しいのだが、子供の重信にはそれがわからなかった。自分の場所が奪われた、そのことだけが頭の中でぐるぐると回り続けている。
利治の「しげ、あっちなんかどうや? あそこもええところやとお父さんは思うで」という言葉にも重信は反応しなかった。ふくれっ面をすることで、自身の怒りを父親に訴えている。そんな息子の顔を見た利治は、はぁ、と小さく息を吐いた。
「それならここにするか? そん代わり、文句は言わんようにな」
「うん!」
父の言葉に、重治は満面の笑みで頷く。今の彼は自分の意見が通ったことが嬉しくてたまらなかった。それに、燕から近い場所に自転車があることで、いつでも燕の姿を見られるようになったことが楽しみで楽しみで仕方なかったのだ。
大人となった重信は、この記憶を思い出す度になんでこんなに意地を張っていたのだろうと恥ずかしくなった。だけど、それでも一時だがこの頃の記憶を何度も思い返していた。
その頃の重信にとって、この記憶はある意味麻薬のような物だった。記憶を思い出している間だけ気持ちが楽になる。そして、幸せなこの時と現実の差に打ちひしがれるのだ。それは、現実に目を向けるまで繰り返された逃避行動だった。
「ただいま」と、父と息子、二人の声が玄関先に響いた。二人は自転車を燕の巣の下に置いた後、家の中へと戻ることにした。
二人が靴を脱いでいると、台所の方からバタバタと廊下を歩く音が聞こえてきた。二人の声を聞き、母の
「おかえりなさい、早かったですね」
「おう、意外と混んでなかったからな」
おっとりと話す妙子とは対照的に、利治は淡々とした言葉で返す。その二人の会話を聞きながら、重信はもう一度燕の姿を見に行きたいと思っていた。巣を作るところを観察したいと、重信はうずうずしている。
「なぁ、お父、お母、ツバメ見てきていい?」
重信の言葉に、妙子は首を傾げ「燕?」と呟く。
「ああ、軒下に燕が巣を作っててな。後、始末頼むわ」
そう言いつつ、利治は居間の方へと向かい姿を消した。その後ろ姿を見ながら妙子は「あらやだ、後で段ボールを引いておこうかしら」と言い、台所の方へと戻っていった。
重信は相手にされなかったことがなんだか寂しくなり、燕の巣をもう一度見に行ったが、そこに燕はおらず、なんだか一人ぼっちになった気がした。もしかすると、自分が自転車を置いてしまったせいで燕は逃げてしまったんじゃないかという不安が重信の心の中に芽生えた。
居ても立っても居られなくなり、父なら何か教えてくれるかもと思い重信は父がいるであろう居間まで走った。
「お父! 燕がおらんようになった!」
「そりゃ、巣を作るためにどっかに行ったんだろ」
利治はめんどくさいといった感じで重信に声を返す。居間では利治がテレビを見ながら畳の上で横になっていた。利治の目の前にはすでに口の開けられた缶ビールと柿の種が置かれている。
テレビには野球の試合が映っていた。ドラゴンズ対スワローズの対決だ。利治は中日ファンで、日曜日の昼になるといつもこうして居間を独占して中日戦を観戦していた。
いつもは重信も父と一緒に野球を見るのだが、今日に限ってはテレビに映る野球よりも燕の方に興味が移っていた。
「ツバメさん戻って来るよね?」
「ああ、多分な」
テレビを見続けたまま利治は頷く。その反応は薄い物だったが、利治にとっては燕のことなんかよりもテレビに映っている竜対燕の方が大事だった。重信は、父の言葉を聞き、また軒下まで走った。
燕の巣の下には妙子がいた。その手には重信の自転車を持っていて、それをどこか違う場所へ持って行こうとしているところだった。
「お母、なにしてんのや」
「しげちゃん、自転車をここに置いたらだめよ。違うところに置きましょ?」
「ここに置くってお父には言ったもん!」
重信の言葉に妙子は困った顔をした。そして、地面にある段ボールと重信の顔を見比べて、ふぅ。と諦めた顔で「巣ができたらブルーシートだけ被せましょうね」とだけ言い、段ボールを持ち納屋の方へと歩いていく。
妙子の背中を見送り、重信は燕が帰ってくるのを待ち続けた。それでもなかなか燕は来ず、そろそろ諦めて家の中に戻ろうとしたその時、重信の頭上を黒い影がさっと横切った。
わぁ、と重信は感嘆深く声を漏らす。二羽の燕がつがいで巣の近くに止まっている。片方はすぐに飛び去ったが、もう一羽の燕はまだ出来かけの巣の近くに陣取っていた。その姿をじっと見ながら、重信は顔に笑みを浮かべる。
太陽が落ち、妙子が夕飯に重信のことを呼ぶまで重信はその場所から動かなかった。