30分後
絵里とアリスがそれぞれS級の配信者契約書を広げ、自分の前に置いているのを見た宮本は、まずアリスに感謝の笑顔を向けて、ゆっくりと言った。
「アリスさん、お気持ちには本当に感謝していますが、俺は…貴社と契約することはできません。申し訳ない」
アリスは宮本の返答に驚く様子もなく、顎を支えながら、興味深げに宮本と目を合わせて言った。
「さっきのでこうなるだろうと思っていましたわ。宮本さまは、信念を貫く方なんですね」
「人としても、仕事をする上でも、常に一貫した信念が必要だと思っています」
宮本はゆっくりと続けた。
「過去の俺は、この信念を守ることで多くの損失を被りました。それでも、後悔はしていません」
その言葉に、宮本はこれまでの社会で戦ってきた年月を思い返していた。
おそらく、会社の上司の前では彼の信念など無価値で、数々の不当な扱いを受けたこともあっただろう。
それでも宮本は、社会に妥協することなく、自分の信念を曲げることはなかった。
たとえ最終的には解雇され、妻や友人に裏切られたとしても。
思考を引き戻し、真剣な表情を浮かべた宮本は、まるで重要な決断を下したかのように続けた。
「俺が探索者になったのはただ偶然のことです。残り少ない人生の中で、好きなことをして過ごせることができて、とても満足しています」
その後、宮本は絵里に目を向けた。
「絵里さん、今までずっとお世話になりました。このS級契約書、俺は署名できません」
宮本の言葉が終わると、絵里とアリスの表情が一斉に固まり、二人の目には理解できない疑問と混乱が浮かんだ。
どうして、こんなにも価値のあるS級配信者契約を二つも断る理由があるのだろうか。
しばらくの沈黙の後、宮本が静かに声を発した。
「実は、遺伝子誘導剤を注射する前に、俺はすでに脳がんと診断されていました。末期で、治療法はありません。残りの命は長くても三ヶ月です…。」
その言葉に、アリスと絵里は驚きの表情を浮かべながらも、宮本の方を見つめ続けた。
宮本は立ち上がり、絵里に向かって深く頭を下げて謝った。
「最初に契約を交わす時、このことを隠してしまって、本当に申し訳ございません!貢献値を交換した後、A級契約の違約金をお支払いするつもりです。本当に、がっかりさせてしまって、すみません」
すべてを告白した今、宮本は言葉にできないほどのすっきりした気持ちになった。
(やっぱり、素直に生きることが一番だな。そうしないと、本当の幸せは得られない。なんだか、すごくすっきりした気分だ)
宮本が空(天井)を見上げて、安堵の表情を浮かべたその時、アリスと絵里が同時に制御しきれずに笑い出した。
彼女たちは手で口元を隠したり、顔を横に向けたりして、できるだけ笑いを抑えようとしたが、さすがに宮本でもその奇妙な光景に気づいた。
「…あの、何がおかしいんですか…?」
宮本は頭をかきながら、困惑した表情を浮かべた。
「ふふっ、宮本さま、あなたは死なないわ」アリスは笑いをこらえながら言った。
絵里はテーブルの上にあるS級契約書を宮本に向かって押し、口元を覆いながら言った。
「宮本くん、どうやら私たちの契約は続けなきゃいけないみたいね。逃げられないわよ!」
数分後、宮本はアリスと絵里が交互に言葉を交わす中で、自分が「死なない」理由を、やっと、理解した。
遺伝子解放者として、Gamma級に到達した者は、すでに体内の悪性細胞を排除する能力を持っている。
この能力は突破後、自動的に体が進化して完成するもので、遺伝子解放者にとっては基礎知識の一つだった。
というか、遺伝子について少しでも知識がある者なら、これを知らない方が不自然だ。
黒竜を倒した強者が、この基礎知識も知らず、自分の余命がわずか三ヶ月だとずっと思っていたことに、あまりにもあり得ないと感じアリスと絵里は大いに笑った。
「宮本さま、今、私は黒竜を倒したのは本当にあなたか、それとも他の偶然だったのか、少し疑っていますわ」アリスは冗談交じりに言った。
その言葉に宮本は何も反応せず、ただ自分が絶命するはずだった事実が覆された衝撃を感じ、心の中で大きな変化が起きた。
(バルトお前…!命までくれたのか!!!)
(そっか…俺は、死ななくて済むんだ……)
(…ありがとバルト…!聞こえてるか!!ありがとー!!!)
(くうっ……)
(…でも、これからの人生、どうすればいいんだろう…)
(やっぱ、自分の意志に従って、自由に、楽しく生き、すべての美しさを楽しんで、この世界を守ろう)
(そうだ。ダンジョンを探索して、仲間たちと冒険し、トップダンジョン配信者になって、人類の世界を守る…。残り少n…ってあれ)
(クセで言いそうになった…。急に余命のカウントダウンがなくなったから、まだ実感が…)
「宮本くん、宮本くん、大丈夫?」
絵里は、石のように固まっているが顔の表情が次々と変化していく宮本を心配そうに呼びかけた。
我に返った宮本は、口を大きく開けて笑い、白い歯を見せながら嬉しそうに言った。
「…俺は…俺は…!死ななくていいんだ!!」
その時、ドアの前で急かすような爪の引っ掻く音が響いた。
夜が深まり、どこかひんやりとした空気が流れる。
だが、扉の前にいたのは…
銀白色の小さなキツネで、前足で懸命にドアを引っ掻いていた。
目はうるんでおり、まるで涙がこぼれそうだった。
(ご主人さま、我を捨てるつもりかな…?)
(あまり深く眠っていなくてよかった…もし寝ていたら、あの
(人間世界って、怖い!!)
涙がこぼれそうになったその時、疑問の表情を浮かべた宮本がドアを開けた。
銀白色のキツネはシュッと宮本の肩に飛び乗り、まだ不器用な人間の言葉で泣きながら言った。
「ご主人さま、ふぇぇ…キュウを捨てるつもり?」
最初は少し疑問の表情を浮かべていた宮本だったが、キュウを見つめながらやっと思い出した。
(ヤバっ…キュウがまだタクシーに乗ってたのをすっかり忘れてた…。)
(かわいそうに、かなり不安だったんだろうな…何か食べ物をあげなきゃ)
(キツネって何が好きなんだろう…そもそも、キツネとして扱っていいのか…)
(…よし!とりあえずきつねうどんでも作って、お詫びしよう!)