深淵――
そこは、極寒の烈風が常時吹き荒れる永劫の闇域。
咆哮のような風が絶え間なく吹きすさび、万を超える奇岩が空を突き立てるように林立し、その中心――
ひときわ禍々しき黒の城塞が、重く沈黙していた。
ここは、数多のテホムヘルシャーの一柱、
アロンタ=ダール伯爵の支配する領域。
その城塞の内部は、音もなく静静まり返り、まるで命という命を拒絶する死の空間。
唯一そこにあるのは、高さ12メートルを超える魔神像。
咆哮するかの如き威容で、今なお沈黙のまま、空間を睥睨するように。
……だが、その静寂が崩れたのは一瞬後。
像の眼――その黒い瞳が、かすかに、しかし確かに動いた。
ぶわり、と。
凄まじい密度の魔力が像を中心に渦を巻き、空間を撓ませながら吹き荒れる。
死の都と化していた空間に再び“何か”が目覚めた気配が広がった。
そのとき――
黒き帳を裂いて、ひとつの影が現れる。
それは、品の良い白いタキシードに身を包んだ老執事。
ヤギのように整えられた顎髭、無駄のない所作。
全身から隙のない気配を漂わせた、完璧な従者だった。
「偉大なるアロンタ=ダール伯爵様。御意に従い、参上いたしました。ご命令のままに、何なりとお申しつけくださいませ」
魔神像はわずかに首を傾け、その目に灯る漆黒の魔気が、はるか足元の従者を一瞥する。
ぞわり、と石の壁をも凍らせるような声が、空間を軋ませた。
「あの“リンク空間”にて我を崇める愚かなる奴隷が……ついに、我が授けし力を行使したか」
その言葉に、執事の目が静かに輝く。
狂信の色を宿した、深く、底知れぬ喜悦。
「おお……! なんと尊き啓示を……!主よ、ついに……ついに現世への御復活の扉が開かれしのですね。いかなる犠牲も、この命も……すべては主のために!」
伯爵の声が再び、深淵の闇を震わせる。
「その奴隷に、さらなる力を与えよ。制限など要らぬ。魂の重みに耐えぬならば、器ごと焼き尽くせばよい。
我が望むは“魂”――人間の魂を、飽くことなく我が許へと捧げさせよ。
貴様の務めはただ一つ――確実に、それを果たすこと。
……我は、もはや待てぬ。現世へと降臨するその瞬間を――」
しばしの間を置き、伯爵はゆっくりと続けた。
「聞くところによれば、あの世界には百億を超える人間の魂が存在する。
最初に深淵を破り、現世に降り立つ“ヘルシャー”が我であるならば……その意味、貴様にもわかるであろう?
伯爵など、もはや過去の名だ。魂を喰らい、力を高めた我は――やがて“公爵”となり、“王”を越え――いずれは、深淵を統べる三柱すら並び立つ存在となる。
……イグよ。貴様に、その覚悟はあるか?」
「はっ……!」
執事――イグは即座に片膝をつき、深く頭を垂れる。
「この身、この魂、命の一滴に至るまで――すべてを賭してお応えいたします、我が主よ」
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その後、イグは静かに踵を返し、伯爵の玉座の間より城の奥へと進んだ。
辿り着いたのは、重厚な封印結界に覆われた一室――
伯爵の支配領域と、「魂の監獄」とを繋ぐ空間リンクの交差点。
すなわち、深淵からの力が地上へと流れ込む“通路”であった。
そこには既に、幾筋もの純粋魔力がノンストップで流れ込み、遥か遠くの魂の監獄の空間を満たしていた。
イグはその“空間映像”を通じて、地上で戦っている“奴隷”――
すなわち、《テホムジェネラル》へと変貌を遂げた霊巫王の姿を見下ろした。
(……ふむ、ひとまずは合格と申せましょうか。主より授かりし力、その片鱗すら扱えぬようでは話になりませぬ。
未だ粗削りではありますが、現世においては――あれで、十分過ぎるほどに脅威となりましょう。
必要とあらば、さらなる魔力を注ぎ込み、“マーシャル”クラスまで一時的に押し上げることも……。)
ふと、イグの目がその対戦相手――漆黒の物質に包まれ、進化を遂げつつある一人の男へと移る。
(……ほう? あの男――どこかで…見覚えが……)
イグは、深淵で数千年の時を生き、伯爵と共に数えきれぬ時代と記憶を越えてきた者。
その中には、忘れようとしても忘れられぬ、忌まわしい過去も――少なからず、存在する。
今、この“現世”との接点――魂の監獄に設けられた映像越しに、黒き物質に包まれ、モンスター化を遂げつつある男を見た瞬間。
イグの、長きに渡り凪いでいた精神に、微かな波紋が走った。
(……まさか、な。いや――ありえぬ。そんなはずが…)
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黒魂堡──大広間。
六本の巨大な手で宮本を潰し尽くしたはずの霊巫王は、眼前の“異変”に愕然とし、信じがたい咆哮を上げた。
「な……何だと……!? 私は、伝説すら超えた存在だぞ……!? この卑しい、這い回る虫ケラにすぎぬ者が、なぜ……ッ!!」
その叫びの中、宮本は静かに、しかし確かな力で霊巫王の六本の掌を押し広げていく。
凄まじい圧力が、全身を押し潰そうと襲いかかる中。
彼の身体は、それをものともせず、逆に弾き返すように堂々と動いた。
驚くべき膂力が、宮本の内から噴き上がる。
骨が軋み、金属のようにきしむ音を上げながら、筋肉は鋼鉄のように膨張する。
そして、その肌の上に浮かび上がるのは――赤金に輝く血管模様。
完全モンスター化によって引き出された、未知の力。
それは肉体を、存在の根源から変質させていた。
「──うあぁぁぁああッ!!」
宮本が咆哮を上げる。
その叫びは空間を揺るがし、深淵の闇さえ貫いた。
墨のように重く淀んでいた魔気が、嘘のように晴れ、空気が澄み渡る。
次の瞬間、彼の肩口から骨の翼刃が飛び出す。
全長1.2メートル。漆黒の骨刃には金色の光が潜み、神経網のような紫雷紋が表面を這い、脈動していた。
宮本の“完全体”は、既知のどのモンスターとも異質だった。
――「モンスター化」と呼ぶにはあまりにも異質だった。
その姿は「モンスター化」というよりも、“異形の装甲”と呼ぶべき――そう、全方位鎧化である。
黒き物質に覆われていた肉体はさらに侵蝕を進め、
未だ人としての形を保っていた部位をも次々に包み込んでいく。
その皮膚はまるで竜鱗のように黒金色の甲片へと変貌し、
瞬く間に、禍々しき威容を放つ《黒金の鎧》が形成された。
肩には逆さに構えた二振りの骨刃。
その刃を支える腕には、六角形のハニカム構造が組み込まれ、
節ごとに嵌め込まれた雷霆の結晶からは、まばゆい紫電がほとばしる。
だが――
最も異様なのは、“顔”だった。
宮本の顔を覆う面甲は、三百六十片もの黒金の刃が螺旋状に回転しながら組み上がり、
その開閉時には内側に仕込まれた三対の金色の復眼が瞬き、見るものすべてを審問するかのような視線を放つ。
額には一本――
魔神のようにねじれた角が伸びていた。
その角先には、凍てつく光が灯っている。
さらに――
宮本の背中からは、雷を宿す一対の翼が展開された。
それは雷神の威光を宿すかのごとく、空間を震わせる裁きの翼。
そして、ついに――
宮本は、霊巫王の六本の手を完全に押し返した。
雷翼がわずかに揺れた刹那、彼の姿は一閃の稲妻のごとく消え――
瞬時に、百メートル後方に姿を現した。
(これが、モンスター化の完全体か…。力が強すぎて、まだ身体が追いついていない気もするが――)
その胸中に、怯えも迷いもなかった。
ただ、興奮と、好奇心だけがあった。
宮本は軽く腕を振り、脚を鳴らす。
面甲の角を指先でなぞりながら、背の雷翼を左右にゆったりと広げる。
そして、無邪気な少年のように――笑った。
(……バルト。やっぱお前の力は特別だ。お前と融合したモンスターですら……最高だ)
肩の骨刃の根元に手を伸ばし、宮本はそっと指を掛ける。
カキンッ
金属のように澄んだ音が空気を裂いた瞬間――
骨刃が滑るように引き抜かれ、彼の両手の中に漆黒の双剣として収まった。
その手に伝わる感覚は、ただの武器のものではなかった。
(……これは、俺の身体の一部だ……)
そう、宮本は今、初めて“完全体”となった。
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宮本の配信――
その映像を見守っていた百万人超の視聴者たちが、まさに狂乱の渦に呑まれていた。
わずか数秒のうちに、万単位のコメントが画面を埋め尽くす。
:キタ━━(゚∀゚)━━ッ!!
:マジか! 無事どころかパワーアップしてんぞ!?
:うおぉぉぉぉッ!!!
:なにあれ!? ガン◯ム!?www
:完全体だァァァ!!かっこよすぎだろ!!
:今までのモンスター化完全体はすべて見た目そのモンスターになりきるのに
:“変異型”って記録にはあったけど、ここまでカッコいいとは!
:うっ…腹筋が…見えなくなった……
:モンスター化経験者だけど、あれ…いいな……
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探索者協会本部・会長室――
モニター越しに映る“完全体”宮本の姿を見つめながら、ニーセルはごくりと唾を飲んだ。
「か、会長……あのモンスター化、本当に実在するんですか? こんな……記録にもないようなもの……」
問いかけに対し、ライーン会長はすぐには答えなかった。
しばし沈黙の後、顎に手を添えて静かに語り始める。
「……厳密に言えば、あの小僧が“最初”じゃあない。 あの手の“変異型モンスター化”を成し遂げた者は、過去にも…一人だけいた」
目を細めるライーンの表情には、懐かしさとも、悔しさとも取れる影が差していた。
「ダンジョンが現世に侵食しはじめた初期の頃……あれもまた、常識という枠を踏み越えた存在だった。 だが……もう過去の話だ。語るには、少々胸が重すぎる」
語りを途中で断ち切った会長に、ニーセルは思わず詰め寄りそうになり――だが、堪えた。
「……では、今の宮本さんなら――あの深淵モンスターを、倒せるんでしょうか?」
静かに問うその声に、ライーンはふっと口元を緩めた。
「…あれで無理ならな。仮にパークを向かわせても、恐らく勝てんのぅ」
その名に、ニーセルが目を見開く。
パーク――探索者協会副会長。
最もEpsilon級に近いとされる男。
一説には、彼は既にその域に達しているとも噂されているが、ありとあらゆるダンジョンでの自由な活動を優先し、意図的に“突破”を控えているのだという。
その実力は、協会の内外を問わず誰もが認めるところだ。
だからこそ、そんな存在すら引き合いに出すほどに、ライーンが宮本に対するどれほど高い評価であるか、ニーセルもよく理解した。