「さて……ここから本題だ」
伯爵の瞳が鋭く光る。
ギラリとした視線に圧倒され、身体が硬直する。まるで鋭い刃を突きつけられたような威圧感に、私は息を詰まらせた。
次の瞬間、伯爵の手が俊敏にこちらへ伸びる。
(しまっ……た!)
私は思わず目をぎゅっと瞑る。
このまま髪を掴まれ、力任せに引き寄せられるのではないか――そんな恐怖が一瞬で駆け巡った。
だが、期待した痛みは訪れなかった。
代わりに、耳元で低く響く声が落ちる。
「ソフィア……命を絶とうとするほど、この城でいじめに遭っているとは、まことか?」
――え?
驚きに目を開けると、伯爵の顔が至近距離にあった。
その表情は嘲笑とも怒りとも違う、ただじっと何かを探るようなもの。
「……何の話、ですか?」
混乱しながら問い返すと、伯爵は手を引き、ゆっくりとソファへと体を預ける。
「とぼけるな。貴族社会の噂というものは、否応なく耳に入ってくるものだ」
伯爵は指先でグラスの縁をなぞるようにしながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「お前がこの城で酷い扱いを受け、挙句の果てに死を選ぼうとした……そういう話が、私のもとに届いたのだ」
胸の奥が強く波打つ。
(そんなこと……誰が……?)
伯爵は私の動揺を見透かしたように、すっと目を細める。
「娘よ、そうなのか?」
「……い、いえ?」
「本当のことを言え、ソフィア。公爵家に身を寄せたところで、結局お前は“居場所のない存在”なのだろう?」
伯爵の言葉は冷たく、鋭く、私の心の奥をえぐるようだった。
「お前は昔から、どこに行こうとも邪魔者扱いされる宿命にある。ならば――」
伯爵は私の目をじっと覗き込む。
「我が家へ帰ってこい、ソフィア」
――何を、言っているの?
動揺を隠せない私の前で、伯爵は薄く笑った。
「大丈夫だ。そんな不安そうにしなくても。手は打ってある。お前がすぐにでもこの忌々しい公爵家から戻ってこれるように、最善の道を用意しよう」
そう言いながら、伯爵は懐から何かを取り出した。
「これは……?」
差し出されたのは、封蝋が施された一通の書状。
「“婚約話”だ」
――婚約?
伯爵はまるで朗らかに世間話をするような調子で言葉を続ける。
「意気地なしのお前には、公爵暗殺は少々荷が重かったようだな」
心臓が一瞬、跳ねるように鼓動を乱す。
「だが、もう大丈夫だ、私の可愛い娘よ――」
伯爵の唇がゆっくりと歪む。
それは慈しみを装いながらも、どこか薄気味悪い笑みだった。
まるで獲物が罠にかかった瞬間を楽しむかのように、不吉な余裕が滲んでいる。
「もうすぐこの城に到着する、お前の“第二の旦那様”がすぐに始末してくれるから」
この人は……何を言っているの?
伯爵の言葉の意味を理解するよりも早く、冷たい汗が背筋を伝った。
頭がついていかない。いや、理解したくない。
けれど、伯爵の声音はあまりにも穏やかで、それがかえって異常な不気味さを際立たせていた。
ぞくり、と背中が凍る。
「……どういう、ことですか」
何とか言葉を絞り出したが、伯爵は答えなかった。
ただ、微笑みを深める。
理解が追いつかないのに、身体だけが恐怖を察知していた。
止まらない震えを、私は必死で押し殺した。