「だ、誰か……!」
喉が震え、助けを求めようとした瞬間――
「おっと」
伯爵の低い声が静かに空気を裂いた。
「そうはさせないよ、ソフィア?」
その言葉と同時に、グラリと視界が揺れる。
え……?
足元が崩れ落ちるような感覚に襲われ、力が抜けた身体がソファへ沈んだ。
意識が遠のいていく。
頭がぼんやりと霞む。
「お父様……なにを……?」
かろうじて声を絞り出しながら、揺れる視界の先にある紅茶のカップを指差した。
伯爵は、まるで大したことではないかのように肩をすくめる。
「気づかなかったか? だが、無理もない」
「ま、まさか……飲み物に……? そんな素振り、見せなかったのに……」
苦しげに問いかけると、伯爵は愉しげに微笑みながらグラスを揺らす。
「公爵家に私の味方を忍び込ませていたのさ。
お前の身の回りに誰がいるか、誰が何を口にするか、全てこちらの掌の上だったということだ」
「……お父様……あなたは……」
朦朧とする意識の中で、脳裏に浮かぶのは――
エドガー。アレクシス。そしてカイル……。
彼らは、今、どこにいるの――?
私がこのまま何も知らせなかったら、彼らは……。
最悪の結末が頭をよぎる。
駄目だ、伝えなきゃ。知らせなきゃ――。
焦燥に駆られながらも、身体は言うことを聞かない。
指先すら動かせず、声を発することすらできない。
ツーッ……
気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。
悔しさと恐怖、そしてどうしようもない無力感に胸が締めつけられる。
伯爵の微笑みが、ゆっくりと滲んでいく。
視界がぼやけ、意識が暗闇へと引きずり込まれそうになる。
駄目。ここで終わるわけにはいかない。
闇に沈みそうになる意識を、必死に繋ぎ止めようとした――。
♢♢♢ ♢♢♢ ♢♢♢ ♢♢♢ ♢♢♢ ♢♢♢
青空の下、黒髪の青年は静かに手綱を握り直した。馬の蹄が地面を打つリズムが心地よく響く。
「……もうすぐか」
低く漏らした声は、どこか気だるげだった。遠くに見え始めた城をぼんやりと眺めながら、青年は無感情に目を細める。
――ここで、大仕事をしなくてはならない。
一国を揺るがす出来事になるだろう。
だが、それがどうしたというのか。
「まあ、俺には悪い話じゃない」
つまらなそうに呟くと、再び馬の腹を軽く蹴った。風を切るように加速する黒馬。その疾走すらも、彼にとっては退屈な日常の延長に過ぎない。
城門が目前に迫る。
やがて、この静寂も終わる。
青年はふっと片方の口角を上げ、まるで義務をこなすかのように、ひどく淡々とした声音で呟いた。
「さて――始めるか」