ごとごと……
何だろう、すごく揺れる。
ゆっくりと上下に揺れる振動が、心地よく全身を包み込む。
意識はまだぼんやりとしていて、夢か現実かもわからない。
まどろみの中で、ゆっくりと瞼を開く。
視界に広がったのは——黒髪。
え……?
次第に意識がはっきりしてくると、目の前にあるそれが何なのか、はっきりと認識できた。
まるで夜の闇を閉じ込めたような、艶やかな黒髪。
そして、その奥にあるのは——冷たいほどに澄んだ赤い瞳。
「……起きたんだね」
驚くほど近い距離で、青年が私を見つめていた。
感情の読めない赤い瞳。どこか儚く揺らめいているように見える。
えっ、なにこの状況——!?
心臓が跳ね上がる。
顔が近い、というか、近すぎる。
思わず咄嗟に声を上げた。
「え、あなた誰?!」
けれど、声を発した瞬間に気づく。
……違う。
それどころじゃない。
私——今、この人に抱きかかえられている?
風を切る音が耳元をかすめる。
視線を落とせば、私は青年の腕の中にしっかりと支えられ、馬の上に座っていた。
夜の空気がひんやりと肌を撫で、馬の駆けるリズムが体に響いてくる。
「まさか……」
さっきまで、お父様と一緒にいたはず。
なのに——気づけば、知らない男に抱えられて、どこかへと運ばれている?
頭がぐるぐるする。
思考がまとまらない。
何がどうなってるの?
あれ、私……そういえば、お父様に……眠らされて……?
記憶が断片的に蘇る。
確かに、最後に見たのはお父様だった。
不気味に微笑みながら、婚約者とかエドガーを始末するとか……。
え……?
混乱した頭で必死に考える。
目の前の青年、知らない人。
でも、今私はこの人の腕の中にいる。
馬に乗せられている。
どこかへ運ばれている。
—— もしかして婚約者って……?
そう気づいた瞬間、全身の血が凍る。
エドガーは?
ゾクリと悪寒が走る。
指先が冷たくなる。
胸が強く締めつけられる。
まさか——
全身が震え出した。
それに気づいたのか、青年がぼそりと呟く。
「君の元婚約者なら、残念ながら生きてるよ」
——生きてる。
一瞬、ほっとする。
でも、だからといって状況が良くなったわけではない。
逃げなきゃ——でもどうやって?
この状況で、どうやってこの人の腕から抜け出す?
この人は敵? それとも……?
わからない——
視界が歪む。
呼吸が浅くなる。
心臓の音が異様に大きく響く。
怖い。
この人は誰?
どこへ連れて行かれるの?
何が起きているの?
わからないことだらけで、思考がぐちゃぐちゃになる。
ただひとつ確かなのは——
私、今、すごく危ないのかもしれない。
ゾクリと背筋が冷たくなった。
逃げないと。でも、この状況じゃ——
ふと顔を上げると、目の前の青年の横顔が視界に映った。
真っ直ぐ前を見据える横顔は、月明かりを浴びて美しく浮かび上がる。
鋭い眼差し。
凛とした口元。
近い。
近すぎる。
鼓動が妙にうるさく響く。
どうしよう、なんだかよくわからないけど、胸がざわつく——。
そのときだった。
「しっかりつかまって」
静かな声が、耳元で囁かれる。
「えっ……」
言葉を返す間もなく、彼の腕が私の腰を引き寄せた。
——あ。
体温がじかに伝わる。
馬の揺れに合わせて、知らない人の腕に支えられる感触。
これ以上ないほどの密着。
知らない人のはずなのに——
その温もりが、なぜか、ひどく心臓を揺さぶった。
——これは、一体どういう状況なの……?