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第29話


ごとごと……


何だろう、すごく揺れる。

ゆっくりと上下に揺れる振動が、心地よく全身を包み込む。

意識はまだぼんやりとしていて、夢か現実かもわからない。


まどろみの中で、ゆっくりと瞼を開く。


視界に広がったのは——黒髪。


え……?


次第に意識がはっきりしてくると、目の前にあるそれが何なのか、はっきりと認識できた。

まるで夜の闇を閉じ込めたような、艶やかな黒髪。

そして、その奥にあるのは——冷たいほどに澄んだ赤い瞳。


「……起きたんだね」


驚くほど近い距離で、青年が私を見つめていた。

感情の読めない赤い瞳。どこか儚く揺らめいているように見える。


えっ、なにこの状況——!?


心臓が跳ね上がる。

顔が近い、というか、近すぎる。


思わず咄嗟に声を上げた。


「え、あなた誰?!」


けれど、声を発した瞬間に気づく。


……違う。

それどころじゃない。


私——今、この人に抱きかかえられている?


風を切る音が耳元をかすめる。


視線を落とせば、私は青年の腕の中にしっかりと支えられ、馬の上に座っていた。

夜の空気がひんやりと肌を撫で、馬の駆けるリズムが体に響いてくる。


「まさか……」


さっきまで、お父様と一緒にいたはず。

なのに——気づけば、知らない男に抱えられて、どこかへと運ばれている?


頭がぐるぐるする。

思考がまとまらない。

何がどうなってるの?


あれ、私……そういえば、お父様に……眠らされて……?


記憶が断片的に蘇る。

確かに、最後に見たのはお父様だった。

不気味に微笑みながら、婚約者とかエドガーを始末するとか……。


え……?


混乱した頭で必死に考える。

目の前の青年、知らない人。

でも、今私はこの人の腕の中にいる。

馬に乗せられている。

どこかへ運ばれている。


—— もしかして婚約者って……?


そう気づいた瞬間、全身の血が凍る。


エドガーは?


ゾクリと悪寒が走る。

指先が冷たくなる。

胸が強く締めつけられる。


まさか——

全身が震え出した。


それに気づいたのか、青年がぼそりと呟く。


「君の元婚約者なら、残念ながら生きてるよ」


——生きてる。


一瞬、ほっとする。

でも、だからといって状況が良くなったわけではない。


逃げなきゃ——でもどうやって?

この状況で、どうやってこの人の腕から抜け出す?

この人は敵? それとも……?


わからない——


視界が歪む。

呼吸が浅くなる。

心臓の音が異様に大きく響く。


怖い。


この人は誰?

どこへ連れて行かれるの?

何が起きているの?


わからないことだらけで、思考がぐちゃぐちゃになる。

ただひとつ確かなのは——


私、今、すごく危ないのかもしれない。


ゾクリと背筋が冷たくなった。

逃げないと。でも、この状況じゃ——


ふと顔を上げると、目の前の青年の横顔が視界に映った。

真っ直ぐ前を見据える横顔は、月明かりを浴びて美しく浮かび上がる。


鋭い眼差し。

凛とした口元。


近い。

近すぎる。


鼓動が妙にうるさく響く。

どうしよう、なんだかよくわからないけど、胸がざわつく——。


そのときだった。


「しっかりつかまって」


静かな声が、耳元で囁かれる。


「えっ……」


言葉を返す間もなく、彼の腕が私の腰を引き寄せた。


——あ。


体温がじかに伝わる。

馬の揺れに合わせて、知らない人の腕に支えられる感触。

これ以上ないほどの密着。


知らない人のはずなのに——

その温もりが、なぜか、ひどく心臓を揺さぶった。


——これは、一体どういう状況なの……?

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