「ほんと、君は可愛いな」
耳元に、低く甘い声。
それだけで、ゾクリと背中がこわばった。
吐息が耳朶をかすめ、反射的に身を引く。
目の前には、朝食のテーブル。
その向こう側には――彼。
――監禁生活、二日目。
まっすぐに私だけを見ていた。
世界には私しか存在しないとでも言いたげな、執着に満ちた視線。
ここは、光の入らない部屋。窓は閉ざされ、扉には鍵。
まるで恋人のように並んで食卓を囲んでいるけれど、
それはただの――異常な平穏。
フォークを運びながら、彼はちらちらと私を見る。
そして何かのスイッチが入ったみたいに囁くのだ。
「可愛いね」「好きだよ」「天使みたいだ」
……気味が悪い。
私は皿を見つめたまま、彼の視線を避け続けるしかなかった。
笑っているけど、おかしい。
その微笑みの奥に、底なしの狂気を感じる。
優しく撫でる手。
けれど、逃げようとすれば、きっと追い詰めてくる。
鍵をかけたのは彼。
なのに、まるで恋人ごっこみたいに振る舞ってくる。
――この男、絶対に裏がある。
初日に見た冷たい瞳が、今ではすっかり熱を帯びている。
豹変ぶりが恐ろしすぎる。
出会って数日、名前すら知らないのに、
彼はまるで私を“全部知ってる”かのように語る。
「私は、あなたが思ってるような綺麗な人間じゃない」
そう吐き捨てると、彼は唇を上げて言った。
「そんなことない。俺は、頭からつま先まで、君を愛してる」
……なに、それ。
台本か何か?ってくらい自然なセリフで、逆に怖い。
どうしてそんなに迷いなく言い切れるの?
私の何を知ってるというの?
汚れた過去も、醜さも、この男は何一つ知らない。
なのに――。
「醜い部分も、愛おしい。見せてほしい、君のすべてを」
真剣な瞳が、心の奥を覗き込んでくる。
……怖い。
こいつは伯爵の手先だ。
私を懐柔して、利用するつもりなんだ。
どいつもこいつも、この屋敷には気を許せない。
何も変わってなんかいなかった。
――みんな、敵だ。
心の奥から湧き上がる恐怖と怒りを抑えきれず、
私は震える指で彼を突き放し、叫んだ。
「もう離れて! 私には、エドガー様がいるの!」
……その瞬間、空気が変わった。
笑みがすっと消えた。
瞳の光が、黒い影に塗り潰された。
そしてぽつりと。
「……は? 誰、それ?」
声は静かだった。
けれど、低く、底に怒りを沈めていた。
「他の男の名前なんて、出さないでくれる?」
表情は笑ってるのに、空気が変わった。
息が苦しくなるほどの、圧。
部屋の温度が、一気に下がった気がした。
「俺以外、全部、捨てろ。今すぐ記憶から抹消して。
君には俺しかいない。俺だけを見ててほしい」
――独占欲。これは嫉妬なんかじゃない。
過去も、未来も、記憶も。
全部を、自分の色で塗り替えようとしてくる。
怖い。怖くてたまらないはずなのに――
……どうして、嫌じゃないと思ってしまうんだろう。
私は、これまでの人生で――
こんなにも強く、私だけに関心を向けられたことがあっただろうか。
たとえそれが嘘でも
こんなにも強烈で、逃げ場のない感情を、真正面からぶつけられたことが。
怖いのに、満たされていく。
歪んだ愛情に、乾ききった心が染みこんでいく。
……信じちゃダメ。逃げなきゃ。
なのに。
ほんの一瞬でも、この男の愛を信じそうになった自分が、何より怖かった。
この部屋の空気みたいに、
逃げ道のない愛に包まれていく気がして。
――閉じ込められてるのは、もしかしたら身体じゃない。
心のほうかもしれない。
そう思ったとき、私は――自分の「正常」を見失いかけていた。