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第33話


「ほんと、君は可愛いな」


耳元に、低く甘い声。

それだけで、ゾクリと背中がこわばった。

吐息が耳朶をかすめ、反射的に身を引く。


目の前には、朝食のテーブル。

その向こう側には――彼。


――監禁生活、二日目。


まっすぐに私だけを見ていた。

世界には私しか存在しないとでも言いたげな、執着に満ちた視線。


ここは、光の入らない部屋。窓は閉ざされ、扉には鍵。

まるで恋人のように並んで食卓を囲んでいるけれど、

それはただの――異常な平穏。


フォークを運びながら、彼はちらちらと私を見る。

そして何かのスイッチが入ったみたいに囁くのだ。


「可愛いね」「好きだよ」「天使みたいだ」


……気味が悪い。

私は皿を見つめたまま、彼の視線を避け続けるしかなかった。


笑っているけど、おかしい。

その微笑みの奥に、底なしの狂気を感じる。


優しく撫でる手。

けれど、逃げようとすれば、きっと追い詰めてくる。


鍵をかけたのは彼。

なのに、まるで恋人ごっこみたいに振る舞ってくる。


――この男、絶対に裏がある。


初日に見た冷たい瞳が、今ではすっかり熱を帯びている。

豹変ぶりが恐ろしすぎる。

出会って数日、名前すら知らないのに、

彼はまるで私を“全部知ってる”かのように語る。


「私は、あなたが思ってるような綺麗な人間じゃない」


そう吐き捨てると、彼は唇を上げて言った。


「そんなことない。俺は、頭からつま先まで、君を愛してる」


……なに、それ。

台本か何か?ってくらい自然なセリフで、逆に怖い。


どうしてそんなに迷いなく言い切れるの?

私の何を知ってるというの?


汚れた過去も、醜さも、この男は何一つ知らない。

なのに――。


「醜い部分も、愛おしい。見せてほしい、君のすべてを」


真剣な瞳が、心の奥を覗き込んでくる。

……怖い。


こいつは伯爵の手先だ。

私を懐柔して、利用するつもりなんだ。


どいつもこいつも、この屋敷には気を許せない。

何も変わってなんかいなかった。

――みんな、敵だ。


心の奥から湧き上がる恐怖と怒りを抑えきれず、

私は震える指で彼を突き放し、叫んだ。



「もう離れて! 私には、エドガー様がいるの!」


……その瞬間、空気が変わった。


笑みがすっと消えた。

瞳の光が、黒い影に塗り潰された。


そしてぽつりと。


「……は? 誰、それ?」


声は静かだった。

けれど、低く、底に怒りを沈めていた。


「他の男の名前なんて、出さないでくれる?」


表情は笑ってるのに、空気が変わった。

息が苦しくなるほどの、圧。

部屋の温度が、一気に下がった気がした。


「俺以外、全部、捨てろ。今すぐ記憶から抹消して。

君には俺しかいない。俺だけを見ててほしい」


――独占欲。これは嫉妬なんかじゃない。


過去も、未来も、記憶も。

全部を、自分の色で塗り替えようとしてくる。


怖い。怖くてたまらないはずなのに――

……どうして、嫌じゃないと思ってしまうんだろう。


私は、これまでの人生で――

こんなにも強く、私だけに関心を向けられたことがあっただろうか。

たとえそれが嘘でも

こんなにも強烈で、逃げ場のない感情を、真正面からぶつけられたことが。



怖いのに、満たされていく。

歪んだ愛情に、乾ききった心が染みこんでいく。


……信じちゃダメ。逃げなきゃ。

なのに。


ほんの一瞬でも、この男の愛を信じそうになった自分が、何より怖かった。


この部屋の空気みたいに、

逃げ道のない愛に包まれていく気がして。


――閉じ込められてるのは、もしかしたら身体じゃない。

心のほうかもしれない。


そう思ったとき、私は――自分の「正常」を見失いかけていた。

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