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第34話


「実は君に一目惚れしたんだ」


夜の静寂を破るように、隣から囁かれた声。


静まり返った部屋。ほの暗い明かりの中、私は寝台の端に座っていた。

彼が隣に腰を下ろす気配がする。距離が近い。皮膚の上を這うような視線。背筋がひやりと凍った。


一目惚れ――

その言葉に、胸がざわめいた。

けれど、それは喜びではなかった。むしろ、冷たく湿った嫌悪感だった。


「また、嘘」


心の中でそう呟く。

この男は、息をするように平然と嘘をつく。

どこまでが本気で、どこからが演技かなんて、最初から期待するだけ無駄だった。


私は顔を背け、無言のまま寝台に身体を横たえる。

毛布を引き寄せ、背を向けて目を閉じた。


すぐに、追い打ちをかけるように耳元で囁かれる。


「ほんとだよ。俺が守ってやる。君を脅かすものたちから」


守る、だなんて――

よくそんな台詞が言えるものね。


この男がいなければ、私は今、こんな部屋で孤独と戦う必要なんてなかった。

扉には鍵。窓は閉ざされ、外の音すら届かない。


光の射さない空間に、私はこの信用ならない男と、二人きりで閉じ込められている。


なのに、どの面下げて“守る”なんて言えるのか。

私を脅かしているのも、他でもない、あなただ。


――伯爵の次に警戒すべき存在。それが、この男。


怒りが、じわじわと腹の底に染み込んでくる。

けれど、私は一言も発さない。ただ、眠るふりをした。


感情を殺し、呼吸を整える。まるで壊れた人形のように。


ああ、この屋敷ではいつもそうだった。

忘れていた感覚が、ゆっくりと蘇ってくる。


背後からの視線が熱い。

それでも、私は振り返らない。

あの目を見てしまったら、平静を保てる自信がなかった。


執着に満ちた視線。

世界に私しか存在しないと信じ込んでいるような、狂気じみた目。


……怖い。


この男の言葉は、すべてが“恋人ごっこ”の延長にしか思えなかった。

優しく撫でる手。甘い囁き。


けれど、その微笑みの奥には、底の見えない黒が潜んでいる。


――この男は危険だ。


それでも、逃げ場はない。


「エドガー様……アレクシス……カイル……」


心の中で、何度も名を呼ぶ。

懐かしい顔。あたたかな声。優しい手。

そのすべてが遠く、ぼやけていく。


誰でもいい。誰か、気づいて。

ここに、私がいることを。


けれど。


この部屋には、私と“彼”しかいない。

逃げたいのに、逃げられない。


夜は、静かすぎて、残酷だ。

私は、誰にも届かない声で、ただ助けを祈るしかなかった。


そしてまた、今日も――

愛という名の狂気に、じわじわと心を侵されていく。


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