「実は君に一目惚れしたんだ」
夜の静寂を破るように、隣から囁かれた声。
静まり返った部屋。ほの暗い明かりの中、私は寝台の端に座っていた。
彼が隣に腰を下ろす気配がする。距離が近い。皮膚の上を這うような視線。背筋がひやりと凍った。
一目惚れ――
その言葉に、胸がざわめいた。
けれど、それは喜びではなかった。むしろ、冷たく湿った嫌悪感だった。
「また、嘘」
心の中でそう呟く。
この男は、息をするように平然と嘘をつく。
どこまでが本気で、どこからが演技かなんて、最初から期待するだけ無駄だった。
私は顔を背け、無言のまま寝台に身体を横たえる。
毛布を引き寄せ、背を向けて目を閉じた。
すぐに、追い打ちをかけるように耳元で囁かれる。
「ほんとだよ。俺が守ってやる。君を脅かすものたちから」
守る、だなんて――
よくそんな台詞が言えるものね。
この男がいなければ、私は今、こんな部屋で孤独と戦う必要なんてなかった。
扉には鍵。窓は閉ざされ、外の音すら届かない。
光の射さない空間に、私はこの信用ならない男と、二人きりで閉じ込められている。
なのに、どの面下げて“守る”なんて言えるのか。
私を脅かしているのも、他でもない、あなただ。
――伯爵の次に警戒すべき存在。それが、この男。
怒りが、じわじわと腹の底に染み込んでくる。
けれど、私は一言も発さない。ただ、眠るふりをした。
感情を殺し、呼吸を整える。まるで壊れた人形のように。
ああ、この屋敷ではいつもそうだった。
忘れていた感覚が、ゆっくりと蘇ってくる。
背後からの視線が熱い。
それでも、私は振り返らない。
あの目を見てしまったら、平静を保てる自信がなかった。
執着に満ちた視線。
世界に私しか存在しないと信じ込んでいるような、狂気じみた目。
……怖い。
この男の言葉は、すべてが“恋人ごっこ”の延長にしか思えなかった。
優しく撫でる手。甘い囁き。
けれど、その微笑みの奥には、底の見えない黒が潜んでいる。
――この男は危険だ。
それでも、逃げ場はない。
「エドガー様……アレクシス……カイル……」
心の中で、何度も名を呼ぶ。
懐かしい顔。あたたかな声。優しい手。
そのすべてが遠く、ぼやけていく。
誰でもいい。誰か、気づいて。
ここに、私がいることを。
けれど。
この部屋には、私と“彼”しかいない。
逃げたいのに、逃げられない。
夜は、静かすぎて、残酷だ。
私は、誰にも届かない声で、ただ助けを祈るしかなかった。
そしてまた、今日も――
愛という名の狂気に、じわじわと心を侵されていく。