「おかえりなさいませ、旦那様」
クロビスが屋敷の玄関の中に入ると、家の奥から明るい女性の声が聞こえてきた。屋敷の主の帰宅に気がついた何者かが、あわただしい足音を立てながら近づいてくる。
クロビスに続いて玄関の中に入ったサクラは、迫ってくる人の気配に緊張してしまう。
いくら街の中にある住宅とはいえ、ここは死にゲーの世界そのままの景色が広がっている。
新しい場所を訪れるにあたり、敵対者による襲撃を警戒することはやりすぎではないはずだ。
──正面からくると見せかけて背後からとつぜん現れたり、上から降ってきたりは……、しないよね?
サクラの頭の中に、ゲームで体験した映像がはっきりと生々しく思い浮かんでくる。
さあ行くぞと気合いを入れてダンジョンの扉を開けた途端に、中からモンスターが飛び出してきてモニターいっぱいのDEADの表示。そのダンジョンがどんなエリアなのか把握することもできずに、直前のセーブポイントまで戻されてしまう。手にしたコントローラーを投げ捨てて机を拳で叩きそうになったのは、一度や二度のことではない。
サクラがからだをこわばらせて立ち尽くしていると、玄関横の部屋の扉が勢いよく開いた。次の瞬間には、扉の向こうの暗闇の中から、ぬうっと老婆が姿を現した。
サクラは驚いて、おもわず隣に立っていたクロビスに抱き着いてしまった。
「あらあら、今日はお早いおかえりでございますね」
そう言って微笑んだ老婆の表情が、サクラを見て固まった。
老婆は目を大きく見開いてから、少しずつ表情を暗くしていく。
「……まあまあ、旦那さま。そ、そちらにいらっしゃる女性は、いったいどなたでございますか?」
「私の恋人です」
老婆がようやく絞り出した言葉に、クロビスがさらりと答える。
「結婚を考えている方なので、今日からここで一緒に暮らそうと思ってお連れしました」
クロビスの返答に、今度は老婆の表情が華やいでいく。目を輝かせて、まじまじとサクラをみつめてくる。
「まあまあ、まあまあまあまあ!」
「どうか彼女のお世話をお願いいたします」
「ええ、ええ。それはもちろん、お任せくださいまし!」
老婆は弾んだ声でクロビスに返事をしながら、大股でサクラの目の前まで歩み寄ってきた。
サクラは慌ててクロビスから離れると、老婆に向かって遠慮がちに頭を下げて挨拶の言葉を口にした。
「……こ、こんにちは」
「はいはい、こんにちは」
老婆は頭を下げるサクラの右手を両手で包み込むと、大きく上下に振りだした。
「うふふ、ごめんなさいね。旦那さまが女性を連れてくるなんて初めてのことでしたから、驚かせてしまいましたかしら」
「……そ、そんなことは」
「いいんですのよ、本当のことをおっしゃってくださって」
老婆がそう言って豪快に笑った。
「これから一緒に過ごすのですから、言いたいことがあればはっきりと婆やにお伝えになってくださいましね」
「……は、はあ……」
サクラは呆気に取られて老婆のなすがままに両手を激しく振られながらも、曖昧に返事をする。そんなサクラの様子にはかまわずに、老婆は歯を見せて笑いながら話を続けた。
「それにしたって、長生きはするものですわね。旦那さまがこんなにお美しい方をお連れになる日がくるだなんて!」
「はじめてお目にかかります。桜も……サクラと申します」
なるべく会話は少なくするようにと言われていても、ずっと黙ったままはいくらなんでも印象が悪いのではないか。
そう思ったサクラは口を開いたが、老婆の勢いに押されてしまった。うっかりゲームのプレイヤー名である桜餅と名乗りそうになる。
なんとかこらえてサクラと名乗ると、老婆がぐっと身を乗り出して顔をのぞき込んできた。
「わたくしの名はヴァルカと申します。こちらのお宅に住み込みで働かせていただいておりますのよ」
「……ヴァルカさんですね。これからよろしくお願いいたします」
「ええ、ええ。末永くよろしくお願いいたしますよ」
サクラはヴァルカと軽くあいさつを交わしながら、やんわりと包み込まれていた手を解放した。
すると、その横でクロビスが打ち合わせ通りに、作り上げたサクラの境遇をヴァルカに話して聞かせる。
「……まあまあ、そうでしたのね。それはそれは、大変におつらかったでしょう」
そう言って、ヴァルカがさめざめと涙を流した。
「着の身着のままでこちらまでいらしたのですね。どおりでお召し物がみすぼらしいと……。ああ、こんなこと。もうしわけございませんわ」
「……み、みすぼらしい、のかな?」
サクラはそうぼやきながら、自身が身に着けている服の裾を掴む。視線を自分のからだに落として、服装を確認する。
こちらで目覚めてから身だしなみなんて気にしている暇がなかったので、いまになって気がついた。
サクラが着ている服は、ゲームの初期装備そのものだった。
──初期装備にありがちな普通の布の服だけどな。防具としてはなんの役にも立たないけど、下着姿よりマシじゃない?
そんな風に考えてみたりもしたが、なにせ熊の血の染みができている。
サクラが自分の服をみつめたままどうしたものかと悩んでいると、隣に立っているクロビスのため息が聞こえた。
「そうですね。服もからだも汚れていてみっともないので、湯あみをさせてあげてください」
「はいはい、それはもう喜んで」
「申し訳ないですが、新しい服もお願いできますか?」
「もちろんですわ。婆やにすべてお任せくださいませ!」
クロビスの言葉に食い気味に返事をしたヴァルカは、サクラの腕を引いて屋敷の奥に連れていこうとする。
「……ただからだをきれいにするだけですよ。取って食ったりしませんから、安心してください」
「──ご、ごめんなさい」
サクラはクロビスと離れることに不安を覚えた。
心細くて、いつの間にかクロビスの服の裾を掴んでいた。
穏やかに声をかけられて、サクラは慌てて手を離した。
「……うん、そうだよね。汚いままじゃ失礼だもんね」
いつまでも一緒にいるわけにはいかないのだと覚悟を決める。
サクラはもういちどヴァルカに頭を下げると、彼女に案内されて屋敷の奥へと向かった。