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第8話

 サクラがヴァルカに連れられてやってきたのは、豪邸にふさわしい大きな風呂だった。

 海外ドラマか映画でしか見たことのない室内の様子に、サクラが驚いて動けなくなっていると、着ていた服を強引に脱がされて浴室の中に押し込まれる。

 そのままヴァルカにからだを洗われそうになったサクラは、慌てて彼女の手をとめた。


「──だ、大丈夫です! 一人でお風呂くらい入れますから」


「あらあら、そうですか? 遠慮しなくてもいいのですよ」


「本当に大丈夫です! なにかあれば声をかけますから、一人にしてほしいです」


 他人に裸を見られていることすら耐えがたいのに、からだを洗われるなんてありえない。

 手伝うと言って聞かないヴァルカを、サクラはなんとか浴室から追い出した。

 しかし、サクラの伝え方が悪かったのだろう。ヴァルカはうるうると目を潤ませていた。彼女は肩を落として頷くと、静かに脱衣所から廊下へと出ていった。


「……しまったな。これ、すごい罪悪感あるかも」


 サクラは言葉の選択を間違えてしまったと反省する。


 サクラが異世界からやってきた人間であると隠すためにクロビスが考えた設定。

 それを信じているヴァルカに『一人にしてほしい』なんていう台詞は、口に出すべきではなかったのかもしれない。

 よほど精神的にショックをうけていると思われたのだろう。廊下に続く扉を閉めたときのヴァルカの憐れむような視線が、胸に突き刺さった。


「……そりゃ落ち込んでいると思われたままの方が余計な詮索はされにくいだろうけど。気遣われたり同情されたりするのは、申し訳ない気持ちになるな」


 とはいえ、本当のことを伝えるわけにはいかない。

 せめて好感度を落とさないためにはどう接するべきかと、サクラはうんうんと呻きながら湯船の中で考えた。


 いまのところ、クロビスはサクラと協力関係にある。

 ヴァルカはそんなクロビスの使用人だ。だからといって、彼女がサクラの味方であるとは限らない。

 できるだけ敵対関係にならないように、悪い印象を与えないように、注意して過ごさなくてはいけない。


「ゲームに登場していなかった人の情報はひとつも持ってないものね」


 人と人として、常識的で良好な関係を築く。それが本当に難しいことであるのは、生きていれば誰でも嫌というほど痛感していることだ。

 当たり前のことがわからない世界で、はたして信頼を勝ち取るためにはどれほどの努力が必要となるのだろうか。


「……ただでさえコミュニケーションって苦手なのにさ……」


 自分を守るために考えた嘘が、実はこの世界で生き抜くうえでものすごく邪魔なものになっているのではないか。

 面倒なことになったなと、サクラはため息をついた。



 そうしてどれほどの時間が経過していたのか、浴室の外からヴァルカにそっと声をかけられた。


「……サクラ様、どうかされましたか? お湯が熱すぎたでしょうかね」


「い、いえいえ。お湯加減はちょうどいいです!」


「それはそれは、ようございましたわ」


 心配そうだった声のトーンが高くなり、ヴァルカが安堵した様子が伝わってくる。


「脱衣所に濡れたおからだを拭くものと、新しいお着替えをご用意いたしましたわ。廊下におりますので、いつでもお声をかけてくださいましね」


「はい! ありがとうございます」


 サクラはヴァルカにそう返事をすると、慌てて湯船からあがった。

 ゆっくりしていると、ヴァルカがサクラを心配するあまり浴室の中に飛び込んできそうだと思ったからだ。

 サクラは浴室を出ると、脱衣所に用意されていた布ですばやく濡れたからだを拭く。


「……着替えって、これだよね?」


 ゲームならボタン一つで着替えが完了するが、現実ではそうはいかない。

 サクラは丁寧にたたまれていた服を手に取って広げてみた。


「……これは、どっちが上になるのかな。そもそも、どう合わせて着るのが正解?」


 ヴァルカに着替えを手伝ってもらうのは居た堪れない。

 だが、目の前に用意されているのは、民族衣装のような知識がないと着こなしの難しい服であったのだ。


「裾の長いワンピースのようなものだというのは理解できるけどね。問題は右と左、どっちを上にして合わせるかということだけどなあ……」


 たとえば着物のような、左右のどちらを上にして着るのかで意味がまったく異なる場合がある。

 あきらかに間違っている着用方法をしていたとして、記憶に多少の混濁がみられるからで乗り切れるものだろうか。


「まあいいわ! ひとまずは羽織ってみて、細部の作りや柄の合わせで判断できるかもしれないしね」


 悩んでいてもどうしようもない。

 サクラは肩に服をひっかけた状態で、脱衣所の隅に置かれた姿見の前に立った。





「──っきゃあああああああああああああああああああああ!」


 鏡に映った自分の姿を見て、サクラは叫び声をあげた。

 森の中で熊に出会ったときに上げた声と負けないくらいの声量だった。


「サクラ様、いかがされましたか⁉」


 サクラはあまりの衝撃に腰を抜かしていた。

 サクラのとんでもない叫び声に、ヴァルカが脱衣所に駆け込んできた。


「あ、ああ。か……っ鏡に、鏡にいいいいいいい!」


「鏡ですか? 鏡がどうしたのでしょう」


「かか、鏡に、あ、あばば……あばばば……」


「あばば? それはどういうことでございましょうか」


「あばばば、アバターが……」


「落ち着いてくださいませ。婆やにもわかるように、ゆっくりとお話しくださいませ」


 あまりの衝撃でろくに話せなくなってしまったサクラに、ヴァルカが困惑している。

 サクラが叫び声をあげたのは、鏡に映った姿が本来の自分でなかったことに衝撃を受けたからだ。

 鏡に映っていたのは、サクラがゲーム内で使用していたアバターの姿だったのだ。


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