エレノアは戦場を駆ける。
視界には、重々しく立ち上る
焼け焦げた獣の毛と血の臭いが鼻孔を刺激し、兵士の悲鳴、猛獣の咆哮が耳朶を震わせた。
ここは、アドラシオン皇国とサンクリッド王国の国境付近。
両国の衝突は年々激化し、今もなお小競り合いが頻発していた。
「リュミエール隊長、これ以上は危険です!」
部下の呼び止める声が背後で聞こえたが、エレノアは振り返らない。
纏った白銀の鎧は敵兵の血に染まり、泥に塗れ、手にした剣も傷み始めている。
それでも、前へ進むことをやめなかった。
(王国の兵も、魔獣も……残さず殲滅する──!)
鞭の音を合図に何匹もの
サンクリッド王国の兵、
だが、エレノアは迷いなく剣を構えた。
「はああぁッ!」
勢いよく踏み込み、狼の首を刃先で断つ。
血飛沫が舞った。耳の奥で絶え間なく断末魔が響く。
けれども、復讐心に突き動かされたエレノアには、罪悪感を抱く
剣を振るう度、脳裏に焼き付いた情景が蘇る。
幸せそうな父と母の笑顔。
そして──焼き払われた家と、剣に貫かれた父の姿。
(許さない……!)
王国への恨みがエレノアの剣を研ぎ澄ましてゆく。
ある意味〝戦いこそが生きる糧〟であった。
エレノアが本隊から離れてさらに突撃をかけたことで、周囲の皇国兵は追随をためらっているようだったが、構わず斬り込んで行く。
『リュミエール少尉、突出しすぎだ! 下がれ!』
身に付けた
(どうせ、あの指揮官は守りばかり考えて前進しない。弱腰はたくさんだ!)
荒れた平野の中央で、エレノアは敵陣深くへ。
鮮血と土埃が混じり合う中を、無我夢中で突き進み──気付けば、いつの間にか四方を敵兵と猛獣に囲まれていた。
「一人とは……蛮勇だな、皇国の女騎士」
「ここで仕留めれば手柄だぞ、囲め! 魔獣を一斉にけしかけろ!」
鞭の音を合図にひときわ大きな魔獣、
刹那の内に、鋭利な爪を立てた前足がエレノアを襲う。
身を
「──ッは、ぐっ!」
死角から
守りたいと願う存在。憎しみに囚われた自分に笑顔を傾けてくれる唯一の存在。
自分が死ねば、残された弟はどうなるか──。
思考して、エレノアは奥歯を食いしばる。
(まだだ……これくらいで……止まれるわけがない……。私は王国を倒す、リヒトを守る! そのためには、どんな手段だって……!)
息が切れて、視界が霞んでいる。
周囲に味方の姿はなく厳しい状況だが、エレノアは諦めず剣を水平に払って魔術の文言を
『女神ルクスよ、我に汝の加護を──
信仰する神の名の元、奇跡は成った。
紫電の宿った剣を薙ぎ払えば、閃光を纏った刃が地面を抉り、駆ける稲妻の衝撃波が包囲網の一角を焼く。
攻撃の緩んだ隙に、エレノアは一瞬で間合いを詰め、敵兵の喉元を斬り裂いた。
「くそ! たかが女騎士一人に……!」
「いけ、殺せ!」
鞭の音が二度、三度、響き渡る。
また、魔獣がやって来る合図だ。
エレノアは体勢を整え、敵を視界に捉えると睨みつけた。
(諦めない。止まらない。私は、絶対に!)
如何に絶望的な状況であろうと、誓いを果たすまでは、と。
強く思った瞬間、胸元で揺れる形見の指輪が熱を持って煌めいた。
「おい、どうした!?」
唐突に、焦りの滲んだ
牙を剥いていたはずの魔獣が、尻尾を丸めて委縮しながら後ずさっている。
怯えているようにも見える。
指輪の煌めきと関係あるのだろうか。
(……わからないが、ここが好機だ)
エレノアは重くなった身体を執念で動かす。
「──ああああ!!」
腹の底から声を上げて、エレノアは剣を振りかざした。
数の優位を笠に、猛々しかったはずの兵が恐怖に顔を歪めている。
奪われたものは戻らない。
そうと知りつつも、エレノアは復讐の刃を振るい続けた。
一帯に彼岸の花が咲き乱れ、撤退の音が鳴り響くまで──。
❖❖❖
ナイトは王国との国境線に築かれた城壁の上で、望遠筒越しに戦いを俯瞰していた。
覗き込んだ先に見ていたのは、白銀の鎧を纏った一人の女騎士。
カチューシャのように三つ編みで編み込んで纏めた、珍しいピンクブロンドの髪。
神秘的な淡い紫に黄金の彩りが差し込んだ
一度見たら忘れらない色彩を持つ彼女は、無謀にも単騎で敵陣のど真ん中へ飛び込み、満身創痍になりがらも状況を逆転して生き抜いた。
「あれがスレイン殿下の仰っていた〝戦場の華〟ですか」
ナイトは望遠筒から目を外して、並び立つ青年──アドラシオン皇国の第一皇子スレインへ問い掛けた。
「そう、美しいだろう? まるで狂い咲きの一輪だ」
彼はまるで愉快な遊びを見つけた子どものように、深い青色の
「確かに。ですが、あれは猛毒を孕む花ですよ」
「フフ、毒こそ美しい。扱い方次第で、最強の兵器になると思わないかい?」
どこか楽しげなスレインの声を聞きながら、ナイトは頭の片隅に眠る〝彼女〟の記録を呼び起こす。
「……エレノア・リュミエール、か。父親を王国軍に殺された過去を持ち、父親の仇を討ち、弟を守るために復讐を糧としている。名門貴族の血筋とはいえ、彼女があれほどの力を持つ理由は何でしょうね」
「勿体ぶるじゃないか、軍師殿。君はなんでも知っているのだろう?」
口角の端を吊り上げたスレインが、ナイトへ視線を向けた。
全てを見透かす様な瞳だ。
ナイトは「さあ、どうでしょう」と肩をすくめて濁す。
そして、思わず視線を逸らした先で、城壁を警護する皇国兵の一人と目が合った。
彼は慌てたように背を向け、小声で仲間に囁いている。
「(あの銀髪頭、最弱無能のナイトだろ? 放蕩皇子──じゃなくて、スレイン殿下と一緒に何しに来たんだ? ここじゃ派手な女遊びも出来ないだろうに)」
「(馬鹿、聞こえたらどうするんだ。皇族に取り入るのが上手いとか、裏で何かしてるとか、いろいろ噂があるんだぞ)」
(……聞こえてるけどね)
しかし、ナイトは彼らの囁きを留めず、
そう呼ばれ、そう扱われる事には、慣れている。
すると、くすくす、と隣から笑い声がこぼれた。
「〝無能〟に〝放蕩皇子〟か。お互い酷い言われようだね」
「まあ、俺に無能の烙印を押しておきたい連中がいるのは事実です。それで油断してくれるなら好都合──と、考えていますよ。殿下だって同じでしょう?」
「そうだね。余計な権力争いの火種を作る必要はない。私たちは水面下で粛々と準備を整えるだけさ」
スレインは無邪気な笑顔を浮かべる。
この笑顔の仮面の下に隠された本性を知るのは、ごくわずかだ。
「……それより殿下、あの花をどうしたいのですか? 下手に摘み取れば、こちらが毒に侵される危険もありますよ」
スレインは口許に手を当て、視線をエレノアへ向ける。
「私たちの計画に引き込めないかと思ってね。彼女が王国を深く憎んでいるのは好都合だし、卓越した剣技と魔術、さらには絶体絶命の状況で見せたあの〝力〟……どれも非常に魅力的だ。私はあの花をどうしても手中に収めたい」
「獣を惑わす力……〝
ナイトは眉をひそめた。かつて自分も、憎しみに囚われていた過去がある。
過ちを経て〝争いを無くしたい〟という理想を胸に
彼女の
「ナイト、君の望みは恒久の和平なんだろう? そのために私の配下となり、この国を、ひいては大陸全体を動かす意志を持った……違うかい?」
小首を傾げ、挑発的に問いかけるスレインに、ナイトは小さく息を吐いた。
皇子である彼が求めるのは〝ただの勝利〟や〝領土拡大〟ではない。
もっと大きな、世界規模の変革だ。
ナイトはそれに賭ける価値を感じたがゆえに、〝無能〟の烙印を逆手に取って、傍で策を練る道を選んだ。
「その通りです。俺は殿下と志を共にすると決めました」
「ならば、出来ないとは言わないよね。彼女はチェスでいうクイーンにふさわしい。縦横無尽に動き、戦局を一変させられる最強の駒だ。君の手で育て上げて見せてよ」
彼は、こうと決めたら譲らないし、その
「……ご命令とあらば。ご期待に沿えるよう、尽力します」
「ふふ、期待しているよ、ナイト。君の隊に彼女を引き込む手筈は、私が整えておこう」
満足げに笑みを深めたスレインに、ナイトは瞼を伏せて礼を取った。
戦場から
退却する王国軍と、それを追撃するエレノアの姿が遠目に映った。
彼女の姿は一見、勇ましく見えるが、簡単に手折れてしまいそうな危うさがある。
(けど、その危うさを克服し、昇華できたとしたなら……)
──彼女は真の高みへと至るだろう。
自分たちの理想と共に。
ナイトは口元にかすかな笑みを浮かべた。
「エレノア・リュミエール、復讐に燃える美しいお姫様。……俺が、飼い慣らしてあげるよ」
風にさらわれて、呟きは虚空へと消える。
血に染まった平野の真ん中で、白銀の鎧が夕日に照らされ、妖しく輝いていた。