エスペランド大陸北部、アドラシオン皇国・皇都ルーチェ。
朝日が差し込む皇都ルーチェの軍本部。
その廊下を、ナイトは盛大なあくびをしながら歩いていた。
スレインの〝お願い〟と称した任務で徹夜明け──いつもの寝不足が更にこじれたせいで足取りは重い。
「ふあぁ……体力のなさは昔からだけど、二十六にもなるとキツいな」
呑気な独り言をかみ殺すように、ナイトはのろのろと廊下を進む。
厳粛な石造りの内装が、まるで自分を睨みつけているように感じるのは気のせいだろうか。
──いや、実際に陰湿な視線や嘲笑が混じっている。
「いい気なもんだよな……こっちは命懸けで王国と戦ってるってのに」
「あいつ、〝お荷物小隊〟の隊長だ。前科持ちって噂もある」
低い舌打ちが遠くで聞こえ、ナイトは気配を消そうと歩調を速めた。
大陸の南部を支配するサンクリッド王国との戦争は、二十年前、かの国の現王マグナス・サングリアが王位を
長引く戦乱に、皇国軍は気が立っているのだ。
そんな中、「無能のくせに第一皇子に取り入って生き残っている」というナイトへの風当たりは強い。
慣れたとはいえ、胸が痛む時もある。
(アドラシオン皇国は魔術至上の国……魔術も剣もロクに扱えない俺は、どう頑張っても無能扱い。それが便利でもあるから黙ってるけど、やっぱり肩身が狭いね)
〝無能〟として扱われる事情は根深く、一筋縄ではない。
が、わざわざ弁解して回る気もナイトにはなかった。
(君子危うきに近付かず。三十六計、逃げるに
「おい、待てよ。
振り返れば、強面の若い兵士と、その取り巻きが二人。
挑発的な笑みを浮かべている。
(嫌な連中に捕まったな……。これも女神ルクス様の試練ってやつ?)
国教の主神の慈悲深さにナイトは涙しそうになりながら、愛想笑いで取り繕う。
「……何か用かな? 急いでるんだけど」
「戦場へ行くわけでもねーだろ? お前は戦えねぇ隊長だからな?」
舌打ち交じりの言葉にナイトは苦笑した。
「まあ、戦闘は得意じゃない。だけど、やるべき役割はある。今日は新しい隊員が来る日でね、迎え入れる準備をしないといけないんだ」
「はっ……どの面下げて隊長気取りしてんだ、無能が! いい迷惑なんだよ!」
次の瞬間、男がナイトの胸倉を掴んで壁に叩きつけた。
派手に背中を打ちつけられ、ナイトは痛みに眉を寄せるが、それでもヘラリと笑ってみせた。
「痛いなぁ……ごめんね。迷惑かけたなら謝るよ。謝るのは得意なんだ」
「ふざけんなっ!」
男の拳が振り下ろされ、ナイトの視界が揺れる。
頬の痛みに意識が飛びそうになりながらナイトは床に倒れ込む。
天井を仰いで、痛みの中で思考を整理する。
(軍人の拳は重い。でも……)
立ち上がろうとした矢先、男がさらに追い打ちをかけようとするような気配を見せた。
もう一撃来るか──というタイミングで、ナイトはわずかに口元を吊り上げ、低い声で問いかけた。
「……で、気は済んだかな、アントニー・クレマンくん」
男の名前を正確に呼ぶと、相手が息を呑むのがわかった。
「な、なんでオレの名前を──」
「ちょっとばかり記憶力には自信があってね。君たちの顔や言動は全部ここの中にある」
ナイトは上体を起こし、壁に背を預けて、人差し指で自分の頭を差し示す。
「三日前は階段下でぶつかった相手に〝いちゃもん〟付けてたよね? 二週間前は門前の茂みで同期を殴ってた。そして一か月前は訓練場の倉庫裏で、〝教育〟と称して新人を痛めつけていた。……身に覚えがないとは、言わせないよ」
「て、てめえ……!」
「報告すれば軍規違反で処罰されるけど……スレイン殿下に訴えて見ようか。まあ、どうなるかな?」
アントニーの顔が見る間に青ざめ、取り巻き二人も動揺している。
「おい、逃げるぞ!」
彼らは舌打ちを残して一目散に走り去った。
ナイトは頬をさすりながら、ふうと大きく息を吐く。
「……まったく。そっちのほうがよっぽど人様に迷惑かけてるじゃないか。また同じことをするなら報告せざるを得ないな」
呟きながら、じわりと広がる痛みに意識を向ける。
徹夜明けの身体に鞭打つような出来事は、思いのほか堪える。
肩にずしりと疲労がのしかかった。
(こんなに消耗してるなら、少し寝ておきたかったな……)
ナイトは苦笑する。
夜通し任務に奔走した後で、朝から暴力沙汰に巻き込まれるのは、さすがに疲弊が大きい。
「ま、面倒ごとに巻き込まれるのも俺の仕事のうち、ってことか。……それより早く執務室に行かないと。〝彼女〟に会わなくちゃ」
笑ってよろめきながら立ち上がり、穏やかな陽光が照らす廊下を再び歩む。
寝不足で瞼も体も、鉛のように重い。
だが、今日は大切な日である。
あの〝エレノア・リュミエール〟──戦場に咲いた〝危険な華〟を、この
(復讐を糧とする姫騎士。……どんな顔をするんだろう)
想像するだけで、胸が高鳴った。
人の憎しみに満ちた目をナイトは嫌というほど知っている。
あの燃え盛る瞳を向けて来るであろうお姫様をどう飼い慣らすか。
そして、彼女はこの〝お荷物小隊〟に飛ばされた理不尽をどう受け止めるのか。
想像すればするほど、ナイトの
無能の寄せ集めと蔑まれるこの小隊に、あの〝姫騎士〟が配属されるまで、あと少し──。