アウローラ城の外庭は、近頃どこを歩いても華やかな雰囲気に包まれていた。
噴水のそばで侍女たちが軽やかに談笑し、廊下を行き交う貴族や従者たちが「皇太子殿下と侯爵令嬢の婚礼は、いかに盛大になるか」という噂話に興じている。
——だが、その裏では違う気配も渦巻いていた。
「ご婚礼を機に、皇帝陛下がラウルス殿下への譲位を考えていると言う話も聞きますわよね」
「まあ。陛下の体調が優れないという噂は本当でしたのね……」
「スレイン殿下はどうなさるのかしら? 帝位にはご興味がないと聞きますけれど、弟君に譲るのは内心複雑なのでは?」
「貴族の中には〝スレイン殿下を皇帝に〟って推してらっしゃる方もいますものね。現にルゼマーレ公爵は──」
ナイトは庭園で
〝スレイン殿下の友〟という立場があるおかげで、警護兵に止められることなく自由に城内を歩き回れるが、当然、彼らの視線は常にこちらをうかがっている。
ナイトは笑みを崩さぬまま小さく息を吐き、スティーリアへ囁いた。
「……花ばかりじゃなく、毒も潜んでいそうだね。いま皇太子殿下は、ヒュドール元帥と組んで権力を固めている。城内はある意味、うかつに踏み込めない領域だ」
「蛇は……人をそそのかし、飲み込む。みんな、騙されてる」
スティーリアが繋いだ手をぎゅっと握りしめ、小さく呟く。
ナイトは「そうだね」と応じつつ、あえて表情を和らげた。素直に不安を顔に出せば、それこそ好奇な視線に付け入られてしまう。
祝いの熱気は城全体を包んでいるが、それが一層、別の陰謀を隠す煙幕になっていると思うと気が抜けない。
「……もう少し、様子を見て回ろうか。何か……踏み込んだ情報が得られるかもしれない」
そんな風にスティーリアへ囁き、彼女が力強くうなずいた、その時だ。
遠く廊下の先で、数人の衛兵が不自然な動きを見せた。先ほどまで雑談をしていたのが、一瞬で背筋を伸ばして静かになったのだ。
つられてナイトが目線をやると、護衛らしき人々を伴う皇太子ラウルス殿下と、皇国軍の頂点に立つヒュドール元帥がこちらへ歩んでくるのが見えた。
ラウルスの長い金髪が揺れ、
さらに後ろには、金茶の短髪を持つ騎士の姿があった。
まさかここで遭遇することになるとは、とナイトは内心で舌打ちする。彼らを回避しようにも、すでに相手の視線は自分たちへ向いていた。
スティーリアは不安げに隠れようとするが、ナイトは「大丈夫」と小声で伝え、覚悟を決めて步を進める。
「殿下、このたびはご婚礼の日取りが決まったと伺いました。誠におめでとうございます。心よりの賛辞を申し上げます」
ごく基本的な敬礼を示すも、ラウルスはナイトを睨みつけ、「ふん」と鼻を鳴らすのみ。返事どころか相槌さえない。
スティーリアも小さく会釈するが、ラウルスの視線は露骨に冷たい。
従者たちも目を逸らし、嫌悪感をあからさまにした嫌な空気が流れる。
(……こんな時、スレイン殿下なら愛想笑いの一つでもして見せただろうに。器の大きさは比べようもないな)
ナイトは静かに息を吐き、ラウルスの後ろヒュドール元帥へと視線を移す。
堂々たる威圧感を白いロングコートの軍服と共に纏うこの男は〝皇国軍の頂点〟とも言える存在だ。
静かに見返されるだけで、心臓が凍きそうな圧を感じる。ナイトが少しでも隙を見せれば、あっさり仕留められてしまう。そんな恐ろしさがある。
(元帥閣下……。貴方はいったい、どこまで皇国を蝕むつもりなんだ?)
問い質したい思いを押し殺していると、ラウルスが
「ヒュドール、兄上の犬になど構っていないで、さっさと行くぞ!」
と声を荒げた。
ヒュドールはしれっと表情を和らげ、「かしこまりました、殿下」と、余裕を漂わせる微笑みを浮かべてラウルスの背後に付き従う。ナイトなど眼中にないと言わんばかりだ。
「ふん。犬は犬らしく、さっさと主人の元へ帰れ。うろつかれるのは目障りだ」
「殿下の仰る通りです。管理を徹底するよう、進言しておきましょう」
捨て台詞とも言える言葉を残して、ラウルスとヒュドールが歩幅を早める。
(……嫌われたものだね。でも彼らの態度……嗅ぎ回られると困るものでもあるのかと、勘繰ってしまうよ)
ナイトは胸の内で独り言ちた。
そうしていると──最後尾へ控えていた騎士が、ナイトを見下ろすように立ち止まり、口の端をゆがめた。
男の名はグラディオ・シュトラール。辺境領シュトラールの
「久しぶりだな、ナイト。……城を歩き回るとは、〝最弱〟のお前がえらく出世したもんだな。それとも、スレイン殿下に媚びたのか? まあ、取り入るのは昔から得意だったもんなぁ」
声の底に嘲りが混じる。まるで昔の友情などとうに踏みにじったという態度だ。
ナイトは切なさを噛み殺して、努めて柔らかな声を返す。
「グラディオ……。護衛任務、ご苦労さま。ラウルス殿下とヒュドール元帥の守りは大変だろう?」
「ハッ! 裏切者のお前に、心配されるいわれはない……! 言われずとも、オレは完璧に全うして見せるさ。お前は〝お荷物小隊〟で存分に無駄な時間を潰すがいい」
あえて「お荷物小隊」という揶揄を口にするあたり、彼の心にナイトへの反感や失望が根強く残っているのだとわかる。
そんなグラディオを前に、ナイトは反論することなく会釈し、その場を離れた。
背後で「臆病者が!」と薄く笑う気配を感じるが、振り返らない。
(……いずれ、グラディオとはちゃんと話しをしないと。……頭ではわかってはいるけど、怖いな。一緒に誓ったことを、捨てたのは俺なのに)
ナイトの脳裏に、炎に呑まれた故郷と、それを奪った王国への〝復讐〟を彼と誓い合った日の光景がよぎった。
けれど自分は過ちを経て、スレインの手を取る道を選んだ。結果的にグラディオとは喧嘩別れ——いや、もはや決定的な絶縁と言っていいだろう。
「……
「うん。少し意外な遭遇をしたけど、大丈夫だよ。……グラディオも、変わってしまったな」
ナイトはスティーリアの手を確かめるように握り直して、小さく息をつく。
ラウルスとヒュドールの不穏な影、昔の友が放つ敵意。それらすべてが重くのしかかってくる。
だが、今のナイトに出来るのは情報を集め、無用な衝突を避けることだった。
「……今日のところは引き上げようか。思ったより大きな〝収穫〟はなかったけど……。別の方法を考えよう」
「……蛇は狡猾で、用心深い。気付かない内に、騙されて……毒が回り始めている……」
「ティアの言う通りだね。俺たちも気を付けないと、あっという間に毒牙にかけられてしまう」
このまま王城を後にするのは惜しいが、過剰にうろつくとヒュドールに警戒される。無理に滞在を伸ばしても危ないだけだろう。
ナイトはスティーリアとともに中庭を抜け、アウローラ城の門へ向かう。
背後に広がる宮廷は、一見すると祝福と賛辞に満ちた輝かしい空間。しかしナイトには、その光の裏に剣呑な闇をひしひしと感じずにはいられなかった。
(ヒュドールの〝毒牙〟がここに深く根を下ろしている以上、この先の衝突は避けられない。……グラディオとも、いずれ)
穏やかな陽光に照らされながらも、ナイトは心に冷たい重量を抱える。
それでも、前へ進まなければならない。
来たる動乱に備え、粛々と根回しをするだけだ。
城門前で振り向くと、高い城壁と翼のように広がる回廊が、こちらを睨みつけているように見えた。
ナイトは一瞬だけ苦い笑みを浮かべるが、すぐにスティーリアの小さな手を引いて、深い呼吸をつく。
「……嵐が起こるのは時間の問題だ。今は、俺たちにできることを考えよう」
微かな靴音を重ねながら、ナイトはスティーリアと共に雑踏へ消えた。
頬を打つ冷たい風が、吹き荒ぶ──。