どこからか滴り落ちる水音のシンフォニーが、洞窟内に響き渡る。
ナイトは止まない涙雨のように物悲しい音色を耳にしながら、思いを馳せた。
イーリスの悲劇へと繋がる愚行。血も涙もない復讐鬼として、戦場に立った咎の記憶に──。
「士官学校を卒業して、恩師に戦略参謀として重用された俺は、前線で思う存分知略を揮ったよ。あの人に促されるまま、ただ憎い相手を殺すために……ね」
怒りに任せて立てる策は、徹底して冷酷無比だった。
命乞いをする者がいようと、子どもだろうと関係ない。
捕虜は取らず、王国側に痛手を与えるためなら躊躇なくその命を刈り取った。
恩師はそれを是とし、咎めることなど一切なかった。
「如何に王国を滅ぼすか。どうすればより多くの命を奪えるか。あの頃はそんなことばかり、考えていたな」
エレノアが信じられないと言った表情で首を横に振る。今のナイトと〝非情な軍師像〟が結びつかないせいだろう。
「信じられない? でも、エレノアも一度は考えたことがあるんじゃないかな。どんな手段を使っても、復讐を果たすんだって」
「それ、は……」
身に覚えがあるらしく、エレノアは視線を逸らし、言葉を詰まらせた。
「わかるだろう? 人はどこまでも非情で残酷になれる生き物なんだよ」
ナイトは苦笑いを浮かべる。
無慈悲に、苛烈な戦術を用いて、多くの戦果を上げた過去。それは同時に、王国側へ深い禍根の種を撒くことになった。
──何故、そこまで冷酷になれたのか。
過去の自分は、怒り、憎しみが先立ち、失念していたのだ。王国側の人たちが同じ感情を持つ人間であることを。
「大切な人の命を奪われれば、相手だって同じように憎しみを募らせる。……冷静になって考えればわかることなのにね。気付いた時には、もうすべてが手遅れだったよ」
己の所業を思い返して、あまりの愚かさに唇を噛む。
ナイトの凶行は王国側の復讐心を煽り、ついには大規模な報復攻撃へと繋がった。それがイーリスの悲劇である。
「イーリスは養父母と暮らした街だった。王国軍の襲撃があった日も、二人はそこに──」
底冷えする洞窟内の空気が、責め立てるように肌を刺す。チクチクとした痛みを覚えながら、寒気と悲しみに当てられ震える唇で、ナイトはゆっくりと息を吐く。
「助けられなかった。……いや、俺こそが、彼らを死に追いやった。アイナのことも、そうだ。俺の復讐が、知らずうちにアイナの恩人を巻き込んでしまっていた」
拭えない後悔が胸に落ちる。
ナイトは肩で息をして、押し黙ったままのエレノアの様子を窺う。
彼女は眉を下げ、
同じように復讐に身を焦がした自分への共感や同情、あるいはもっと別の感情か──。
瞳から覗く色は複雑だ。どれが正解かなんてわからない。
「ごめんね、こんな話。困惑するよね」
少し弱気になって問いかけると、エレノアがゆっくりかぶりを振った。
「私こそ、すみません。自分から聞いたくせに……」
隠しきれない動揺。エレノアが俯き、拳を握り締める。
彼女の反応は、ある程度予想していた。ナイトは「気にしないで」と静かに告げた。
「……隊長は、そのような経験をして……どう立ち直ったのですか? やはり、恩師の方が支えに……?」
眉を下げたまま、おずおずと尋ねてくるエレノア。
そう考えるのは自然なこと。何もおかしくはないのだが、ナイトは思わず、乾いた笑いをもらしてしまう。
彼女の眉間に、
「むしろ、逆。あの人は俺を見捨てた。イーリス襲撃を招いた失態の責だけじゃなく、ありもしない〝内通罪〟を被せられて、軍法会議にかけられたよ」
「な……!?」
「混乱のうちに言い渡された判決は、極刑。あの瞬間はもう、それでもいいかなって思った」
復讐の代償は大きかった。養父母の死、恩師の裏切り──と、立て続けの凶事に見舞われ、ナイトは再び絶望。死の安息が救いにすら思えたくらいだ。
話を聞いたエレノアは、小刻みに肩を震わせている。
「そんなの、あんまりです……! どうして、隊長がそのような仕打ちを、受けなければいけなかったのですか」
「あの人にとって所詮、俺は都合のいい駒。最初から使い捨てるつもりだったんだろうさ」
自嘲気味に吐き捨てると、彼女はぐっと歯を食いしばった。
自分のために、エレノアが怒りを露わにしている。不謹慎ながらそれが嬉しくて、後ろ暗い話で冷え込んだ心がほんのりと温かくなる。
「でも、そんな俺に救いの手を差し出す人がいた。それも、意外な人物がね。……誰だと思う?」
投げ掛けるとエレノアは逡巡した。が、思い当たらないようで、すぐに「わかりません」と言葉が返った。
ナイトは「そうだよね」と、笑いながら相槌を打つ。
「噂話ほどアテにならないものはないって言うけど、想像もつかないよなぁ。あの〝放蕩皇子〟が手を差し伸べてくれるだなんてさ」
「え……! まさか、スレイン殿下ですか?」
「そ、驚くだろ? 殿下の場合、遊んでるって噂もまったくの嘘じゃないし『助けてあげる』って言われても、最初は信じられなかったよ」
戦犯の助命はそう簡単にできるものではない。放蕩皇子の気まぐれなお遊びだと思い、ナイトは取り合わなかった。
何より、生きる気力を無くしていたというのもある。
「だけど、殿下は諦めなくてね。毎日毎日、牢にいる俺の元を訪れて『私の手を取れ』と迫ってきた。それでも無視を決め込んでいたら『罪を
なんともなしに語るナイトを他所に、エレノアが青ざめた。普通なら皇族侮辱罪に当たる発言なので、肝を冷やしたのだろう。
しかし、スレインは咎めるどころか嬉しそうに口角を上げたのを覚えている。「まだ、怒れるだけの気力があるじゃないか」──と。
加えて吸い込まれそうな
「『生きて贖罪に足掻く方がよっぽど美しい』……軽く聞こえるけど奥が深い。殿下らしい言葉が心に響いた。気付いたらその手を取っていたよ」
どうせ失うものなどありはしない。
腐るよりも美しく。嘆くより少しでも前を向こう──そう、思えたのだ。
「……そうだったのですね。でも、また利用されるとは思わなかったのですか?」
「ただで助けてもらえるとは考えてなかったさ。だから聞いたよ。見返りに求めるものをね。そしてそれを聞いた上で俺は、殿下の提案を承諾した」
スレインが提示した条件はいくつかあるが、平たくいえば一つである。
「憎しみのない世界、〝恒久和平〟の実現。そのために残りの人生を捧げ、尽力すること。──これが、助命の代価に殿下と交わした誓約」
憎しみに身を焦がし、さらなる悲劇を生むのではなく、〝守るために力を揮う〟と誓ったのもこの時だ。
ヴェイン小隊を率いて暗躍するのは、スレインに課せられた使命であり、ナイト自身が選び取った贖罪の道でもある。
すっかり冷たくなった指先を握り込んでエレノアを見やると、息を飲んだ彼女と視線が結ばれた。
しばし、見つめ合ったまま沈黙が流れる。
アイナとの邂逅で自責の念に駆られていたが、今は不思議と凪いだ気持ちだ。
(……誰かに話す事で心が軽くなる、か。本当にその通りだな)
過去を振り返って話すうちに、ナイトはスレインとの誓いを、自分がどうありたいと願ったのかを思い出した。
「立ち止まって、後悔しているだけじゃ何も解決しないよな。怖くても向き合わないと」
ナイトは独り言のように呟いてうなずき、長い吐息を落とす。
「ありがとう、エレノア。君のお陰で大事なことを思い出せたよ」
「私は何も……。隊長は、強いですね。羨ましいです」
壁に背を預けたまま微笑んで告げるとエレノアは俯き、地面に置かれた小石を指先で弄んだ。爪先ほどの破片がカツンと跳ね、闇に弧を描いて転がっていく。
「エレノアみたいに、堂々と剣を取れるほどの強さはないけどね?」
「そういうことではなく……」
茶目っ気たっぷりにわざとらしく首を傾げる。盛大なため息が返ってエレノアの肩から力が抜け、背後の石壁へ体重が預けられた。
「はぁ、もういいです。隊長が元気になったなら、それで」
漏れる声音からは安堵と照れの入り交じった色が伝わってくる。
元気になった途端、ちょっと冗談が過ぎたかな、と反省していると「……そういえば」とエレノアが顔を上げた。
「隊長を貶めた恩師というのは、誰なのですか? 皇国軍の人間ですよね」
ふと思い出したらしい。夜目でも映える
ナイトは腕を組み、記憶の箱を開けてゆっくりと思考を巡らせる。
今のエレノアになら教えても大丈夫だろう。
そう結論付けて、深呼吸。
それから一拍置き、慎重に言葉を選んで告げる。
「恩師の名はヒュドール・ヴァハトゥン。〝
名前を告げた途端、洞窟の空気がひんやりと湿った。遠くで水滴が落ちる音が、ひときわ冷たく耳朶を打つ。
エレノアは驚きで声が出ないのか、ただただ瞼をまばたかせている。無理もないことだ。
ナイトはエレノアの戸惑いを感じながら、おもむろに懐中時計を取り出す。
視線を落とすと、もう日を跨いでしまっていた。
「……ひとまずここまでにしよう。色々聞いて混乱しているだろうし、詳しいことは皇国に帰ったら話すよ」
時計の蓋をそっと閉じれば、秒針のかすかな音は闇へと吸い込まれていった。
「わかり……ました。今はそのために少しでも休まないと、ですね」
「うん。俺が見張ってるから、エレノアはもう少し眠るといい」
エレノアがうなずいて膝を抱えるのを見届けて、ナイトは立ち上がって洞窟の入り口へ視線を移す。
洞窟内にほんのわずかに灯る魔術の光が二人の影を映し出し、薄闇の向こうで森風が葉をざわめかせて、夜の匂いを運んでくる。
王国の陰謀、毒を孕む皇国、そしてアイナのこと。
行く先には、まだ多くの困難が待ち構えているが、それでも、ナイトは希望を胸に抱く。
どれだけ罪を負おうと、守りたいと願う心がある限り、前へ進むことができる。
許されぬ罪を抱える者と、形見の指輪を失った者。今はともに支え合いながら、状況の打開を目指すのだ。
冷たく沈む洞窟の闇が二人の間だけは、光に照らされて消えていくようだった。