署長室の空気は重苦しい沈黙に包まれていた。
黒い革手袋をはめたヘンリーが、机の上に一通の手紙を差し出す。
「父からこれを預かりました。アシェンフォード署長に直接手渡すように、と」
「エドガーから話は聞いてる。座りたまえ、ヘンリー君」
デスクの前に備え付けられている革のソファを手で指しながら、アシェンフォードは緑色の双眸をきつく眇めた。眉間にしわが寄り、白いひげを蓄えた鼻の下を考えるようにいじっている。
ヴィクタシア市警の署長として働く叔父のアシェンフォードは、「厄介ごとを持ち込みおって」と兄であるエドガーの名前を呟きながら悪態をついていた。
ヘンリーはコートを脱ぐと手にかけたままの状態で、椅子に座り込んだ。膝の上で両手を組む。
「父は決行すべきだと言っています。犯人の狙いもわからない上、悪戯でない可能性も否定できないから、と」
アシェンフォードは白い手袋で手紙を開けた。中を一瞥し、視線を天井に向けると、両肩を落として大きく息を吐いた。その表情は、呆れてものも言えないという感じだった。
「継ぎはぎだらけの怪文書。ホームズか」
「新聞や広告、雑誌の切り抜きから文字を張り付けたようで、差出人の名前はなく、ただティアーズの総支配人宛てにポストに入れられていました」
アシェンフォードは「厄介な……」と呟きながら、疲れたように机の上に広げられた手紙に視線を落とす。そこには、犯行予告が綴られていた。
「明日のオークションを中止しなければ、会場を爆破する」
シンプルでありながら容赦ない脅迫文。その文字は鋭く紙を引き裂くような力強さを持ち、誰が見ても冗談では済まされない内容だ。
「連絡を受けて捜査員を派遣したはずだが、爆発物の類は見つかっていないと報告を受けている」
「顧客の命を優先させるべきだ、と私は思います」
低く冷静なヘンリーの声が部屋に響いた。
アシェンフォードは静かに頷くものの、決定権を持つ人物——ティアーズの総支配人である彼の父親は異なる立場を取っている。
「オークションを中止した際の負債についての懸念か」
「出品の品目の中にはティアーズが業者から買い取り、修繕や修復を行って競売にかける商品もあります。美術品的な価値はさておいて、貴金属の場合、相場が変動すれば落札価格にも影響が出る。父はそれを懸念しているようでした」
「そうは言ってもなぁ。相場なんて乱高下するのが基本だ。一番安い時が明日とも限らん」
「頑固ですからね。あの人は。一度言いだしたら聞かないところがあります」
自分とよく似た外見の、七十を幾ばくか過ぎた父親を脳裏に思い浮かべ、ヘンリーは苦笑した。
「開催日を変更するという選択肢は、現実的ではないのでしょうか」
「変更が可能だとしても、それが犯人を引き止める保証はない。ティアーズに存在する出品物のどれかが目的なのだとしたら、犯人はそれに執着するだろうし、ティアーズ自体が狙いなら、今後のオークションの運営そのものを見直さなければならないだろう。心当たりは?」
恨まれている自覚があるか、と言外に示されて、ヘンリーは細くため息をつく。
オークションは、様々な業界から色々な思惑や欲望が一堂に集い、絡まる場だ。すべてに気を配る時間も余裕もない。
「ティアーズ自体を狙っている場合なら、一時的にオークションを中止にすればいいだけでしょうが、犯人が特定の物品を狙っている場合は、その限りではありませんよね」
「そうだな。清い品がほとんどだろうが、曰くつきの品もあるだろう」
正規のルートで入手した品であっても、その過程でどのように渡ってきたか判然としないものもある。
美術館から入手した競売品が、美術館に展示される前に盗品として流通していた――そんな話は珍しくない。
品物が入手される過程で怨嗟を生み、新たな曰くを背負ってオークションにかけられる例も少なくない。
犯人が特定の物品に執着している可能性を考慮しなければならないだろう。
「それについては、エドガーは何か言っていたか?」
アシェンフォードがちらりと視線を向けると、ヘンリーは顎に手を当て、しばし考え込んだ。
「父が言っていたのは、今回の目玉商品の一つである十三世紀のランカッサ修道院で飾られていた女神像とアメジストのゴブレット。それから、フェレイユ社のオパールの指輪です」
「またフェレイユ社か……」
何度も聞きたくない名前だ、とアシェンフォードは目を覆った。
ヘンリーも深くソファに沈み込み、お手上げであることを示したその時、執務室のドアが軽く叩かれた。
「入れ」
「署長、緊急でお伝えしたいことが」
淡い金髪に鳶色の瞳の青年が部屋に入室してきた。その顔に見覚えがあり、ヘンリーはわずかに腰を上げる。
鼻の頭にそばかすを散らしたひょろりとした高身長の青年。彼は部屋に入るなり、少し驚いたように声を上げた。
「ヘンリー・アシェンフォード……さん!」
そうだ、確かハリエットの幼馴染、エドワルト・ハーレイとか言わなかっただろうか。
おぼろげな記憶の中に浮かんだ名前を確認するように、ヘンリーは青年の顔をじっと見た。
「おい、エドワルト。来客中に失礼だぞ。内線があるんだ。電話を使え」
アシェンフォードは机の上の電話機を持ち上げ、存在をアピールする。
「君は確か、ハーレイの」
「はい。ハリエットの隣の花屋は俺の実家です」
「なんだ、エドワルトと知り合いか」
青年はヘンリーに軽く会釈すると、すぐに表情を引き締め、足早にアシェンフォードのそばへ寄った。身を屈めて耳打ちすればアシェンフォードが驚いたように目を見開く。
「確かか?」
「間違いありません」
エドワルトはきっぱりと言い切ると、短く礼を取って部屋を出ていった。