偽装婚約を持ちかけてきたくせに、優しすぎる一輝さん。雪の日に見せた、私に対するある種の執着は、その後、変に抑えることなく適度に発散している。
幸太と談笑すれば、「婚約者の自覚が足りない」と叱られる。それを幸太の前でやるものだから、「俺とこいつですか? ないない、ないですっ」と完全否定されて笑い話になる。一輝さんも、そういう時、本気で拗ねてるわけじゃない。幸太をかわいがっているからこそ、話の輪に入りたいんだなっていうのがわかってきた。
婚約指輪は、できるだけ身につけるようにしている。取引先の方々は、噂を聞いてうずうずしているところへ、私の薬指と一輝さんの幸せオーラを目にして、好きに解釈してくださる。彼の計画は、進捗状況が極めて良好というわけ。
私はというと、彼の素敵なところ、かわいいところを見つけるたびに、「私のものじゃない」と自分に言い聞かせている。いまや彼に対する気持ちは「愛しい」といっても過言ではないけれど、恋愛の意味じゃない。
信頼、尊敬、感謝の念はもちろんある。一輝さんに、今となっては完全に心を許している。心の奥で何かが育っていくのも感じているけれど、蓋をして、見ない振りを続けた。
街は、都会の真ん中でさえピンク色。桃と桜の競演。一輝さんと出会って初めての、満開の春。「花見をしよう」と言い出した彼は、鎌倉出張に私を同行させた。一日半の自由時間。花に埋もれた歴史を満喫した。私は子供の頃、少女漫画で日本史を覚えたから、大いにはしゃいでしまった。
静かな山を行く散策コースでは、ひっそりと佇む桜を言葉もなく見つめた。ひらひらと舞う花びらは、昔の人の心残りを今に伝えるかのよう。
ちゃんと生きよう、と思った。
一輝さんのそばにいると、私の心は柔らかくなる。自然に笑うことができる。消息不明の星吾を案じるのとは別に、自分もしっかり、目標を見定めて生きないといけない。
「また来ような」
「はい」
約束が、積み重なっていく。
ひとつひとつのイベントを大切にするのは、彼の性格なのか、舞台装置として効果的だからなのか。五月には、私の誕生日を盛大にお祝いしてくれた。
その日、彼は朝から私にべったりで、甘えたい気分なんだろうなあと呑気に構えていた。自分の誕生日であることは覚えていたけど、殊更に言い立てるものでもない。目が覚めて、「二十五歳」の響きに一人でワクワクしていた。
両親や夏代からのお祝いメッセージには、今までの自分のことを考えさせられた。
『たまには、欲しいものは欲しいと言いなさいね』
これはお母さん。
『一番でなくていいから、二番目、三番目に欲しいものを教えてくれ。でないと強制的に、今度出る古今東西のミステリー全集がプレゼントになる』
あ、それ欲しい。お父さん、娘の心をくすぐる術を心得てる。
『何かを願うのは、悪いことじゃないよ。灯里がいっぱいわがまま言い出すの、私待ってるからね』
「夏代……」
これらのメッセージを、朝食後、一輝さんが電話をしている間にササッと読み、お礼を送信した。勢いでなだれ込む時は仕方ないにしても、基本的に、ベッドの中にスマートフォンは持ち込まない。暗黙のルール。今ではお互い、寝室に持ち込むことさえ控えている。
公私混同が甚だしいタイプかと思いきや、私との契約を除けば意外ときっちり分ける一輝さん。二人の時間を大切にしてくれる。私の方は寝ても覚めてもお仕事だから矛盾してはいるけど、不快な思いはさせられたことがない。
一輝さんの電話は英語。綺麗な発音とアクセントが、音楽みたいに心地いい。「もうじき終わるから」と身振りで伝えてくるのに頷きながら、「ほしいもの」を考えた。
――今、一番ほしいものは、一輝さん。
パッと浮かんだ答えに、幸せな気持ちになった。
いつの頃からか、私は「一番〇〇なもの」を答えるのが苦手になっていた。何もないわけじゃなくて、「一番」が空位。お父さんのメッセージにあったのはそのこと。
欲しいものや、わがままに関しても、根っこは同じかもしれない。現状、大きな不満も困ることもないから、取り立てて何かを望むことはしない……そうやって、今まで来た。自分の意志以外の要素で否応なしに変化していくことに対しても、できるだけ事を荒立てず明日へ行けるならそれでいいと――願っても、望んでも、手が届かないものはあるんだからと。
幼い頃は、無邪気に一番を言えていたと思う。今、遠慮も気後れもなく、一輝さんを一番に指名したように。
彼が電話を終えた。通話中のきりっとした表情から、何歳も若返って男の子の顔になり、いそいそと近寄ってくる。
「待たせたな。出られるか?」
「はい、いつでも。……何ですか、この手」
「灯里がかわいすぎるのがいけない。何を考えていた?」
「……わかってて、聞いているのでは?」
「知れば知るほど独特の思考回路だからな。自信がない」
「それ、一輝さんだけには言われたくないです」
なんて、いちゃいちゃして、手をつないで部屋を出る。ホテルの人たちには見慣れた光景。約三か月半、ここを拠点に生活している。
私の「一番」さんは、私の脳内ではとっくにその座に――渇望する前に自動的に――おさまっているのに、時々不安そう。言ってみれば共犯者として、これ以上ないほどしっくりいっている二人。いつか終わる、その時は刻一刻と近付いていると、私は割り切ってる。それなのに、彼の態度、表情、言葉、触れ方のせいで、いつまでも続くのかもと勘違いしそうになる。
偽装婚約者の任を解かれた時、私たちはどんな関係に変わっていくんだろう。