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第2章第11話

 銀色のハート型シールで封がされた赤いお守りを、ケースの底に大事にしまった。

「一輝さん」

「うん?」

「ありがとうございます。私、うまく言えないけど……二月のあの日から今日までの間に、生き生きとした気持ちを取り戻せた気がします」

 考えてみれば不思議。前の会社を退職していなければ、彼との出会いはなかった。就職活動中、幸太と同じカフェに偶然立ち寄ることがなければ、今の会社の前で立ち止まることもなかった。ちょうど出かけるところだった一輝さんとは、すれ違ってそれっきりになっていただろう。

 それに、学生時代、私は一番いい待遇を打診してくれた企業を断っている。地元周辺が希望の私に対して、先方が提示したのは、新しくできるニューヨーク支店の管理部門。挑戦したい気持ちはあったけど、どうしても、星吾が帰る日を日本で待ちたいと思った。お父さんもお母さんも「自分の人生を考えなさい」と言ってくれたし、友人たちにも、考え直すよう諭された。自分の選択が百パーセント正しかったなんて、今でも言えない。けれど――私は、一輝さんと出会えた。

 明日には切れているかもしれない儚いえにしの糸。それでも私は今、「すべてがあなたへとつながっていた」と言える。

「お互い様だ」 

 私の救世主は、声までも光を湛えている。


 一輝さんと出会った日に知り合った指揮者のベルガー夫妻も、この晩、同じレストランにいた。これはさすがに彼の仕込みではないだろうけど驚いたし、「おめでとう」と声をかけていただいて嬉しかった。奥様のソフィアさんは私に、「あなたの幸福が永遠のものとなりますように。彼を離しちゃ駄目よ」と囁いた。「はい」とまたひとつ嘘を重ねながら、一輝さんこそ永遠に幸せであってほしいと祈った。


 サプライズその五は、ホテルに戻ってから。お風呂にバスフラワーが浮かんでいた。ピンク色の薔薇。

「率先してお湯を入れ始めたと思ったら……」

 これを仕掛けるためだったんだ。何食わぬ顔でリビングに戻って、私をからかって。「そろそろいいんじゃないか? ゆっくり入っておいで」と促したあとは、浴室のそばをうろうろ。「湯加減を見てから入れよ」なんて注意してきたのも、これを早く見てほしかったから。

「あああ、もう……」

 脱衣所と浴室との間の扉を開けたまま、悶えてうずくまった。

「一輝さーん……」

 まだ近くにいるに違いない彼を呼ぶと、「大丈夫か? 気分が悪いのか?」とびっくりして私を助け起こそうとした。ぶんぶんと首を横に振り、嬉しいのと泣きたいのとでぶわっと弾けそうな感情を、爆発的なひと言に込めた。

「一緒に、入ろ?」

 私の中の何かのメーターが、完全に振り切れた瞬間だった。それは壊れてしまって、もう使い物にならない。後戻りはできない。彼の中でも、何かが壊れたのがわかった。もしも瞳に触れることができるなら、きっと太陽の芯よりも熱い。


 嘘なのに。恋じゃないのに、深入りしていく。頭も体も、彼とふたつに分かれていることがもどかしい。ああ、完全にひとつの存在になれたら、いつまでも本当に一緒にいられるのに――。


 この日最後のサプライズは、ベッドに敷き詰められた薔薇の花びら。彼は、少々茹だってしまった私をお姫様抱っこで運び、静かに横たえた。今だけでも私に、周りの時間と私たちの年齢を止められる魔法が使えたらいいのに。そしたら、百年でも二百年でもこうしていられる。

 絡まった指は、夜の短さを証明するようで、切なかった。


 季節はめぐる。迷いと戸惑いが完全に消えることはないけど、私は偽装婚約をとことん楽しもうと決めた。自分が変わっていくのが楽しいし、助けてくれた一輝さんの役に立ちたいから。


 六月の雨は、悲しい歌が多い。色が移りゆく紫陽花が、不実の象徴として語られることもある。子供の頃のように、葉っぱにかたつむりを見つけて、はしゃいでばかりもいられない。小学校低学年くらいまでは、長靴でわざと水たまりに入るのが好きだったなあ。

 と、昔を懐かしんでやり過ごすのが常になっていたんだけど。今年はそうはいかなかった。徒歩で移動する時、雨が降っていれば当然傘をさす。片手が塞がり、お互いの傘の大きさの分だけ距離ができる。晴れや曇りなら、あからさまにベタベタしないまでも、袖が触れるくらいにはくっついて歩けるのに。傘があると、顔も見えにくくて……。

 しとしと降る雨の中、私は自分の傘を閉じた。

「灯里? ……おい、いいのか」

 一輝さんの傘に入れてもらって、体を寄せた。彼は目をぱちくりさせている。

「この方が、婚約者っぽいでしょ?」

 軽く腕につかまると、一瞬の間に彼の表情がコロコロ変わった。私を気遣って、仕方のないやつと笑って、負けず嫌いの男の子が顔を覗かせる。

「では、かわいらしい言の葉を紡ぐ唇に敬意を表しても? 婚約者殿」

「そう来ると思いました。でも、こういうのは雰囲気が大事なんです」

「お預けか?」

「はい。我慢してくださいね」

「残念だ」

 そう言いながら、声はしっとりと優しい。歩き出すと、歩調だけでなく、鼓動もひとつになった。トクン、トクンと同じリズムで刻む。

「あとで、我慢したご褒美をあげますから……」

「公衆の面前で煽るんじゃない」

「何を想像してるんですか」

 戯れる言葉が、雨粒を彩る。今日の雨、一生忘れない。


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