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第3章第2話

 待望の夏休み。金曜日の、まだ明るいうちに彼の家へと向かった。

「お帰りなさいませ、一輝坊ちゃま」

 出迎えてくれたのは、快活でしとやかな中年女性。明田部長の奥様の、透子とうこさんだ。家主の不在中、家の管理をしているのがこの人。「坊ちゃま」は優しく、「ただいま、透子さん」と答えた。

「初めまして、戸倉です」

「まあまあ、ついにこのような日が……」

 涙ぐむ彼女は、真相を知らない。心苦しいけど、映画のことで話が合い、夕食の時間の直前まで引き止めた。

 防弾ガラスが装備されているというこの家は、いかにも大企業の社長宅!というイメージではない。建物こそ大きいけれど、白い壁に緑の屋根は、窓枠の感じも手伝って、有名なカナダの小説を思わせる。十一歳の女の子が、胸をふくらませて引き取られてきた家。女の子向けの小説だと思われているけど、海外では男性ファンも多いと聞く。一輝さんも?と尋ねると、「全巻、各国語で揃えてる」と返ってきた。

「納屋に見立てた、あれが図書室だ。好きに読むといい。俺をほったらかしにしない程度にな」

「図書室というか、図書館ですね。ふふ、一輝さんらしい……」

 マニアックでスケールが大きくて、ロマンに満ちている。のどかな雰囲気で、彼の夢がいっぱい詰まったこの家を、私は初日から大好きになった。家に恋をするって、本当にあることなんだ。


 幸せだった。一輝さんの、完全にプライベートな空間。牧歌的で繊細な内装の母屋と、趣味の物をぎっしり詰め込んだ図書室のギャップに笑った。透子さんは三日に一度来て、子犬のようにじゃれる私たちをにこにこ見守ってくれた。

 約束していたインタビュー記事も、大切そうにファイルにおさめてあるのを読ませてもらった。初めて二人で観た映画の監督のインタビュー。思えばあれで、一気に彼に親近感が沸いた。

 屋内プールで泳いだり、お互いに水をひっかけて遊んだり。二人とも、思いっきり笑った。たくさん、たくさん、誰にも、何にも気兼ねすることなく。

 見つめ合えば触れたくなり、その先へと行為が進むのも、ここなら遠慮はいらない。彼は枷が外されて自由を手に入れたかのようにぶつかってきて、私も応じた。ただ、心の最奥の鍵だけは、開けなかった。


 休暇の七日目。ベッドにもなる大きなソファーで、くっついてごろごろしていると、テレビに夏休みを楽しむ人々の様子が映った。その中に、美しい緑に囲まれた湖の映像があって、一輝さんと行ってみたいなあと思った。私の表情を読んだ彼は、「まあ、ひとっ走りの距離だな。行ってみるか」と起き上がった。


 愛車と会話をするように運転を楽しむ彼は、夏の陽射しより眩しい。気分はひとっ飛び。

 到着した湖は観光の人でいっぱい。サングラスにラフな服装の一輝さんは、「役者?」「モデル?」と囁かれながらも、騒がれることなく風景に馴染んだ。ミルクの味が濃厚なアイスクリームを食べたり、何でもできてしまう彼がボートを漕いでくれたり。外国を舞台にした少女漫画のヒロインになったみたい。

「慣れてますね、と言いたそうな顔だな」

「ふふ。上手だなあ、とは思ってます」

「兄貴に教わった。子供の頃にな」

「会長に?」

「教え方は、下の兄の方がうまかった」

 そのひと言に、思い出が凝縮されていた。ご家族の夏休み、一輝さんはまだ小さくて、負けず嫌いで。ひとまわり上の総一郎様は、穏やかな理論派。次兄の正一様は、遊び心のあるわかりやすい教え方をしたのかもしれない。

「あいつが言うには、バランスと我慢が肝だと」

「我慢ですか」

「こう言ってた。『ボートの上で女の子を口説くのはやめとけ。盛り上がって転覆して、ずぶ濡れになるのがオチだ』」

「ああ……そういう」

「ずぶ濡れになったあと、その彼女と結婚したのもあいつなんだが」

「あら、ハッピーエンドですね。素敵」

「幸運な事例だな」

 滑るボートの上、視線が絡み合う。そのまま、言葉を忘れたように景色の中にいた。ずぶ濡れには、ならなかった。


 桟橋に戻ってからも、手をつないで黙って歩いた。この沈黙が、私たちの世界の果てのような気がした。許される、ギリギリのところまで来てる。踏み越えてはいけない――。

 彼が立ち止まった。遊歩道を、いつの間にか湖を見下ろせる高い場所まで来ていた。ああ、一輝さんて綺麗だな。光と無邪気に戯れてる。

 彼も、私を眩しそうに見た。

「来てよかった」

「はい」

 平和な時間は、そこまでだった。


 ――俺から離れるな。

 あの言葉を守ってきた。でも、観光地のお手洗いでは離れざるを得ない。そこを狙われた。手を洗っているところを、口を塞がれて薬を嗅がされ、意識が遠のいた。入ってきたのとは別の出入り口から連れ出されるのを、一輝さんが気付くはずもなく――。


 冷たいコンクリートの上で目が覚めた。手足を縛られてる。口にはガムテープ。頭が痛い……ガンガンする。

「よし、送信した。かわいい恋人が『助けて』と言ってるんだ、必ず来る」

 少し離れたところに、大柄な男が三人。顔は見えない。濃い色のサングラスで隠してる。スーツを着込んだ男が私のスマートフォンを手にして、にやついていた。風格からいってあれがリーダー。私が目を開けているのを見て近付いてきた。

「お目覚めかな、お嬢さん」

 睨みつけてやった。馬鹿な人たち。私なんか人質にしたって無駄なのに。

「安心しろ。あんたにこれ以上の手出しはしない。かなり俺の好みなんだが……そうそう、そういう目つきが特にな。だが、雇い主に殺されたくはないんでね」

 雇い主って、誰!?

「無理に口を聞こうとしない方がいいぞ。喉を痛める。そこでおとなしく、愛しい一輝さんが屈服するのを見守ってやるんだ。あんたが掻っ攫われて絶望する様もな」




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